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政財界倶楽部         (恩田将葉見聞録)

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タグ:いじめ ( 6 ) タグの人気記事

育児とは、教育とは

育児とは、教育とは
2012年7月27日

 大津でのいじめ自殺事件以来、教育現場に嵐が吹き荒れ、今まで見て見ぬ振りをしていた教師たちが浮足立ち、日本全国でいじめの問題が動き出した。予想はしていたが、多くの子供たちが、いじめに苦しんでいることが今更ながら広く知られた。教師や親は見て見ぬ振りをして、子供たちは行き場を失い、どうしてよいかもわからず自ら命を絶っていくという、あってはならない現実が此処其処にあることもわかった。

 理由はどうあれ、自身の保身のため、事なかれ主義で彼ら被害児童を見捨てていた罪は重い。だが、これだけは言っておきたい。教師全てがダメ教師になったのではない。一生懸命子供たちと対峙し、日々汗を流し、プライベートの時間を惜しんで子供たちと向き合っている先生も日本中には沢山いるということを。

 そもそも、育児とか教育には、正解もマニュアルもない。手探りで、正直に子供たちと対峙しながら為していくしか方法はない。十人十色、十人子供がいれば、育児や教育の方法は十通りあるといっても過言ではない。だが、そうはいっても、教育や育児ということの基本が、わかっていない大人が現代社会には多いように思う。そのことが、この国を危機的な状態に導いているとさえいえる。大人自体が大人でありながら、どこか子供のようなところがある現代日本人。本来無垢の子供たちにとって、唯一の社会は学校であり、一番身近な大人は教師や親である。だが、その教師や親との信頼関係自体が希薄なため、子供たちは多くの試練を昔よりも負わなければならなくなっている。

 確かに子供たちは、案外狡賢いところもある。その辺のことを導くのも、ある意味親や教師、大人たちの役目である。本来、育児や教育は、社会全体の責任である。子供たちは、社会の宝であるのである以上、自分の子供だけでなく、子供たち皆に目を配り、その場その場で臨機応変に声を掛けたり、アドバイスを与えたりして然るべき。だが、現代社会では、その辺の受け皿が、子供たちに対して希薄になってしまっている。故に、今回のいじめ加害者のような児童が、注意されることもなく育ってしまうのだ。そもそも、誰よりも、彼らの親が、一番彼らが何をしていたかわかっているはずである。にもかかわらず、注意したり、叱咤したりするのではなく、無意味に庇うという状況にあること自体、非常に由々しき問題である。仮にも一人の児童が亡くなったのである。しかも、自分たちの子供たちが加害児童であるにもかかわらず、彼らの行動を糺すのではなく、庇い弁護するというのでは、彼ら加害児童こそ、親や教師や大人による甘やかしの被害者であり、彼らの将来には、非常に危ういものを感じる。この期に及んで、学びを得ることができず、嘘とだましで、今回のことを乗り越えることを学んでしまえば、今後の彼らの人生は、どのようなものになるかは目に見えている。学べない子供たちほど、可哀そうな存在はない。教育とは、子供たちに、できるだけ多くの選択肢を与え、子供たち自身に、その選択肢を思考選択させ、その都度、間違った道に進まないように軌道修正してあげることが、大人の役目である。にもかかわらず、彼ら加害児童の親や教師たちは、軌道修正するどころか、事実を捻じ曲げ、偽善で彼らの行為を正当化しようとしている。このことは、今後彼らをモンスターにしてしまう可能性が非常に大きく、その責任は、教師のみならず彼らの親に対しても非常に大きい。

 そもそも、日本の教育や育児の現場は、長年偏ってしまっている。どういうことかと言えば、父親は働き手として、外で汗水流し仕事のみに集中している場合が多い。最近になって、父親も育児に参加する傾向が若い世代には出てきたが、高度経済成長以来日本では、育児は母親任せという場合が非常に多い。だが、それは間違っている。父親も、母親も、同じように子供たちと向き合うことで、バランスのとれた育児教育ができる。そういいながらも、我が家は片親で長年やってきているので、偉そうなことは言えないが。一つだけ明確に言えることは、父親の育児参加も、非常に必要不可欠な要因であることは間違いないということだ。

確かに、昔のような、高い目線からの教育や育児も必要かもしれない。親を敬い、教師を敬い、目上を敬うような。しかし、それは儒教的な教えの部分で、年がら年中、強要して押し付けるべきものではない。必ずしも親が全て正しくはないのだから、親も子供も、同じ高さの目線にたち、何でも話し合える状況を確立することの方が、子供にとっても、親にとっても、幸せである。何故そういうことが必要かと言えば、教育や育児では、急ぎ焦るのではなく、時間を掛けて、お互いに何でも話し合い物事を解決するということが、非常に大切なことであるからだ。

 昨今の学校教育では、知識を詰め込まなければならないために、本来思春期の子供たちが、多感な時期に学ばなければならない、人が生きていくに必要な諸々のことがらを学ぶ時間がないという致命的なことになっている。一時ゆとり教育と文部省が提唱していたが、あれは「ゆとり」という意味をはき違えている。本来教育における「ゆとり」とは、遊ぶ時間の「ゆとり」ではなく、物事を思考し、話し合う充分な時間という意味での「ゆとり」でなければならない。ところが、正反対のことが為されてしまった。

 教育や育児で一番大切なことは、焦らず、押し付けるのではなく、ゆっくりと見守る余裕である。今この時を焦って一歩早く歩みを進めても、子供たち自身が納得できておらず、腑に落ちていなければ、それは本当の意味での学びにはならない。上辺だけの偽りの学びにしかならない。今の公立校の教育現場では、そんな偽善の教育が蔓延してしまっているように思う。子供たちは、何を信じてよいのかもわからなくなってしまっている。本来、一番彼らが信じられる親さえ信じられなく、身近にいる教師さえもが信じられない、事なかれ主義になってしまっている。本当に子供たちにとっての救いがなくなってしまっている。極めて悲しむべき危機的状況に、多くの学校現場が陥っているように強く思う。知識などというものは、本人がその気になれば、いくつになったって学ぶことができる。だが、生きるということの大切な学びは、多感な思春期、中学校、高校の時代にしか学べないことなのだ。この時期に、どれだけ思考し、悩み、物事の本質を議論することによって、彼らの未来は、比べものにならないほどの可能性を生み出すことができる。

 育児や教育は、部活動ではない。上から押し付けるのではダメなのだ。そんなことをしても、身体の芯には染み込まないし、学びにはならない。子供たち自身が納得し、自ら腑に落とすことで、本当の意味での学びを得るということになるのだ。そのことを誤解している親や教師が非常に多いように思う。

 子供たちは、親の操り人形ではない。思い通りにはならないのだ。人格もあり、個性もあり、独自の思考もある。それを親の勝手な思いで、縛り、無理矢理方向性を付けても、そのことが子供にとって本当の幸せであるかどうかは、非常に大きな疑問である。どんなことであっても、子供たちが自ら望み、納得し、本当に腑に落ちれば、どんな苦労でも、一生懸命に尽くすであろう。そのことを学ばせてあげた方が、彼らにとっては100倍幸せなことだ。もし親である大人が、上司に力づくで、押さえつけられ、自分の望むことでないことを強要されたら、貴方は幸せであろうか? まったく同じことである。親であっても、そこまでの権利はないはずだ。彼らが自身の力で学びとり、納得し、腑に落ちれば、彼らの人生は、どれだけ幸せで可能性が大きいものになるか。大人のエゴで、自由を奪ってはいけないと私は思う。

 最後に、今の大人たちは、自由ということを大いに履き違い誤解している。自由ということには、責任ということも、同時に求められるのだ。子供に大人のエゴを押し付けるのは良いが、それでは彼らの未来に、親や教師であっても責任を持てるのであろうか。大いに疑問を感じる。自立するということとは、正反対のことであるように私は強く思う。
by seizaikai_club | 2012-07-27 21:35 | 教育

加害児童三人に「いじめ」を認めさせることの方が<大津いじめ自殺事件>

加害者児童三人に「いじめ」を認めさせることの方が<大津いじめ自殺事件>
2012年7月16日

 大津の中二児童いじめ自殺問題で、民事訴訟に於いて、加害児童三人が、それぞれが法廷でいじめを否認し、遊びであったと主張したとの報道があった。損害賠償請求が起これば、当然被告弁護人はいじめの有無を論点に法廷闘争を行う。だが、負けないために当然のことながら、加害児童たちにいじめの否認を迫る、これが彼ら加害児童の人生、将来にとって、どれだけ大きなことか。どれだけ彼ら加害児童の人生を狂わせることか、そのことを関係者である大人たちは認識する必要がある。確かに多額の損害賠償を請求されれば、それを避けるためにいじめの事実じたいを否認することになる。実際に否認した。だが、それは彼らが犯した罪に対して、嘘を強い、大人の都合で、事実を歪曲することになる。そのことが、彼ら三人に与える不幸であることを、彼らの親も、弁護人も理解するべきである。そもそも関係教師たちが、彼らを止められなかったから、こういう事態に発展してしまったのだが、被害者児童は自ら命を絶ち、今度は、加害児童たちもが、彼らに事実を隠ぺいさせ、嘘をつかすことになる。どれだけ、子供たちを踏みにじることになるか? そのことに思いを深く巡らせながら、裁判も、捜査も、日本中の親や大人、教師、政治家、教育関係者の全てが、真摯に受け止め、この事件を今後見守るべきである。彼ら子供たちの人生は、もう元には戻らない。救いは、このいじめが起こった学校の残された子供たちだ。彼らは、自らの判断で、勇気を振り絞り、中には自ら記名してアンケートに答え、声を上げている。彼らの行為を無駄にしないように、今後は大人たちが、もっとももっと真剣に子供たちに対峙し、解決に向けてこの国の大人たち全てで取り組まなければ、この国に未来はない。
by seizaikai_club | 2012-07-16 16:39 | 教育

大津いじめ問題にみる教育現場荒廃状況に憤り

大津いじめ問題に見る教育現場荒廃状況に憤り
2012年7月15日

 この問題には、本当に色々な意味で憤りを覚える。いじめの問題は、古今東西子供たちの成長期には多かれ少なかれ必ず生じる問題だ。だが、いじめの形が、間違いなく昔と今では大きく変わった。それは、いじめの形もだが、教師や親を含め大人たちの環境、もちろん子供たちの置かれた環境もである。そして、もっとも大きな違いは、教師たちや学校の対応と意識、資質の問題であると、今回の事件は強く私たちに感じさせてくれた。

 そもそも、いじめとは、あってはならないことである。だが、必ずいじめという問題が学校という環境では起こる。学校だけではない、日本の場合は仕事場を含めあらゆる組織で起こる。それは、日本人のある意味陰湿な集団性に起因する気もする。だが、ここで、その問題を中心に取り上げることは差し控える。

 今回の問題で最も憤りを感じる部分は、あれだけのいじめの事実があり、あれだけの同窓生がそのいじめを感じていて、アンケート調査では記名までしてそのことを訴えようとした残された生徒たちの声さえも歪曲し隠ぺいしようとした学校、教師、教育委員会の体質だ。正直、彼らは聖職者としての資質ゼロだ。いや、人間としても失格だ。あれだけのいじめを受けていながら、担任は見て見ぬ振りをした。絶対に気付いていたはずだ。だが、面倒なことにならなければと、心の底で祈っていたはずに違いない。いじめを受けていた当事者が、勇気を振り絞って、自殺直前に担任に電話で訴えていたという。どれだけ、苦しい思いで勇気を振り絞り、先生に助けを求めたのであろうか。同級生にも、同じく担任にいじめの事実を伝えていた女性生徒がいたという。それでも担任教師は、見て見ぬ振りをした。言葉は悪いが、ある意味担任教師を含め、教師たちに自殺した被害者生徒は殺されたと言っても過言ではない。

 娘とこの件を話してみた。すると、パパの時代とはいじめの形が違うのだと強く一蹴された。彼女が通う私立校では、そういうことはないが公立校から転校してきた子の話という前置きの上で、今のいじめは集団で行われるから、皆明日は我が身で何も言えないというのだ。それでも、悪いことは悪いことで、誰かが勇気を出して阻止しなければ、仲間が辛い思いをしているのだからと言ったら、そうではない。わかっていない。と強く否定されてしまった。多分、私たちの時代とは、様相が一変しているのであろう。だが、一つだけ言えることは、昔は、教師に相談すれば、教師は必ず救いの手を差し伸べてくれた。だが、今の公立校では、そこのところが絶望的な現状である。これは、実際に公立校で教師をしている方から聞いた話だが、教師間自体コミュニケーションも希薄で、自分だけを守ろうという意識が強く、事なかれ主義で、できるだけ子供たちの問題も見て見ぬ振りでやり過ごすというのだ。公立校の教育現場には、絶望しかなく希望は全くないと、公立校の教師自身が言うのだ。私は、この言葉を聞いた時愕然とした。

 無垢の子供たちは、まだ学校という小さな社会のみで生活しており、他人とのコミュニケーション能力も不自由分である。そんな状況下で、いじめに合い、一人思い悩み、いじめに苦しんでいる時、一番身近にいる彼らを指導すべき教師たちが見て見ぬ振りをしてしまうということは、彼ら子供たちにとって、どれだけ不幸なことか。被害者の子供たちだけではない、加害者の子供にとっても、道を踏み誤らないチャンスを得ることができないはずだ。

 教師とは、本来勉学を教授するだけではなく、子供たちが人間社会で生きていくための色々なことを導かなければならない身近な大人であるはず。にもかかわらず、教師たちは、知識を押し込むだけ。一番大切な人として生きるということを、子供たちは教えてもらえないというのは、これ以上不幸なことはない。そもそも、中学高校の一番多感な時期、反抗期もあれば、色々なことが、子供たちには起こる。だが、それら諸々の経験より、生きていく術を彼らは学んでいくはずだ。見ていると、今の教師たちは、「教育」ということを誤解している。「教育とは、本来子供たちに多くの選択肢を与えること」であるはずだ。だが、教師たちは、選択肢ではなく、自分たちの思想や知識や悪習ばかりを押し付けているようにしか見えない。今回の事件でも、教師や学校は、子供たちに隠ぺいを強いた。口外しないように強いた。本当は気付いていたいじめを気付いていなかったように嘘をついた。これら全てのことが、子供たちにとっては学びになってしまう。嘘をつくこと、隠ぺいすること、皆彼らの人生での学びになってしまう。その影響の大きさには、憤りと絶望しか感じ得ない。彼らは、これからの人生で、何かあれば隠ぺいすればよいのだ、嘘をつけばよいのだと学んでしまう。これは悲しむべきことだ。

 そもそも教師は聖職であったはずだ。学校は聖域であったはずだ。地域からも、親たちからも、一目置かれていた存在だ。だからこそ、教師も学校も、本気で子供たちを指導できた。その根本にも問題が生じているように感じる。モンスターペアレンツなどという言葉が持て囃されること自体異常だ。話が逸れるが、教師や学校の責任だけではないことを、全ての親も大人たちも理解しなければならない。長年、公立校でも私立校でもPTA活動を経験してきて、一つだけ言えることは、出過ぎて間違った感覚で大きな声を上げる親を止めることができるのは教師ではない。これができるのは、同じ立場にある我々親なのだ。同じ立場にある親ならばそんな無謀な親をも静止し説得することもできる。このことからもわかるように、育児、教育とは、学校任せでも、教師任せでもなく、家庭も、親も、社会も一体となって初めて為せることなのである。

 私の子供たちが通っていた公立の小学校は、他の公立校に比較すると非常に良い教育環境が保たれていた。そのことは、教師と子供たち、教師と教師の関係を見ていると一目瞭然である。一番の判断材料は、職員室の様子だ。職員室が静かで暗い学校は、何かしら問題を抱えていると私は思っている。

 どんな学校でも、多かれ少なかれ問題を抱えている。だが、それらの問題を正直に対峙し、解決しようする努力があるか否かは、校長先生の教師としての資質と人間性によるところが大きいように感じる。子供たちの小学校の校長先生と私は、色々な理由で非常に親しくしていた。勿論PTAとしてであり、個人的な利害はまったくない。一言でいえば、親としても、その校長先生が大好きであった。いつも目線が子供たちと同じ高さにあり、校長室に閉じこもるのではなく、常に学校内におり子供たちと接していた。何と全校生徒の顔と名前を全員覚えておられた。これには私も驚かされた。何気ないことだが、この姿勢が非常に大切なのだ。廊下ですれ違いながらも、校長先生は、すれ違う子供に声を必ず掛ける。勿論、子供に名前を呼びかけながら。自ずと、子供たちも校長先生に子供たちも心の扉を開く。この校長先生の校長室には、昼子供たちが自由に頻繁に出入りしていた。風通しが良いのだ。子供たちも何でも校長先生に話す。校長先生も子供たちに耳を傾ける。すると自然に先生たちの風通しもよくなる。残念なことに、この先生は、校長先生を私の娘の卒業と同時に定年で退官されたが、その直後胃癌で亡くなられた。あの穏やかお姿とは裏腹に多くのストレスを抱えておられたかと想像すると、胸が詰まる。娘は、当時私立の中学校に入学し寮にいたので、葬式は参加できなかった。私が代わりに娘の分まで手を合わせてきたが、門凄い数の参列者が故人を惜しんで参列していた。勿論たくさんの生徒たちも参列していた。話は逸れるが、この先生との縁の始まりは、PTAで新潟出身のこの先生と餅つき大会を催したことであった。深く暖かい人としての絆を感じられた。多分、生徒たちも同じような感覚を、この先生に感じていたと今でも私は思っている。因みに、道徳の先生であり、公立校の道徳の教科書も執筆されている先生であった。

 こういうことが、教育の本来の姿ではないかと私は思っている。特別なことでも、頭でっかちな知識の押し込みでもなく、人としての絆、関わり方を学ぶ場こそが学校であり、それを導く身近な大人が教師でないかと。
この校長先生が、よく言っていらした。悩みが二つあると。できることならば、子供たちが六年間小学校で過ごす間、男先生の担任、女先生の担任、どちらも皆に経験してもらいたいと。だが、今の教員比率では、女性の方が大きく、また信任男性教師が生まれても、直ぐに男性教師は辞めて転職してしまうと。色々な理由を伺ったが、ここでは割愛することとする。
二つ目の悩みは、校長先生という職務は、ある意味外交官のようで、学校にいる時間が制約されてしまうということであった。教師は東京都の職員、用務員さんなど学校運営や経営にかかわる人々は区の職員として、区に帰属している。その結果、校長先生は板挟みで煩雑な作業に追われ、子供たちとの時間を満足に取れないと悩んでおられた。その言葉が非常に印象的で、私の脳裏に残っている。

 それにしても、今回の大津のいじめ問題は、あまりにも度が過ぎており、これはもういじめの範疇を超え色々な意味で刑事事件としか言いようがない。そもそも、警察をはじめ司法が教育にかかわること自体異常事態である。だが、今回の事件が、いじめに関し氷山の一角であり、大津だけでなく全国で同じような深刻ないじめ問題が生じているのであれば、政府は何よりこの問題、即ち公立校の教育現場荒廃改善を最優先にするべきであると強く思う。新たなる犠牲者を生まないためにも。きっと、こんな問題が取り沙汰されている間にも、日本のどこかで多くの被害児童がいじめに苦しんでいるに違いない。根本から教育現場を改善しなければ、この国に未来はない。何故なら、子供たちは、この国の未来を支える宝であるから。
by seizaikai_club | 2012-07-15 14:16 | 教育

公立校に於けるいじめの問題

公立校に於けるいじめの問題
2012年7月5日

ここ数日、「大津の中2自殺:生前に自殺練習強要」事件に賛否両論寄せられている。無記名も可能であるにも関わらず多くの生徒たちが記名アンケートで、いじめがあったという実態を吐露しているにもかかわらず、教育委員会や教師たちは、その実態を「知らなかった」と隠蔽しようとしている。責任逃れを決め込むつもりであろう。だが、これは氷山の一角。公立校のいじめの実態である。絶対に等閑にしてはならない問題だ。

そんな事件が伝えられている中一昨日、公立中学にこの春から通う私の甥っ子も、番長と呼ばれる子供とその取り巻き複数の生徒によって、袋叩きにされて帰宅した。問題はそれだけではない。教師から、私の妹、つまり彼の母親に電話があり、悪いのは袋叩きにした番長や子供たちではなく、甥っ子が汚い言葉で罵倒したことがキッカケだと言い、一方的に怪我をさせられた甥っ子の方が悪者にされてしまったのだ。妹によると、その番長と呼ばれる子供は親子共、非常に素行が悪く、教師たちも触らぬ神に祟りなしという感じで接しているというのだ。本来教師としてあるまじき行為だ。百歩譲って、喧嘩両成敗が常套だ。

何故このことを書くことにしたかというと、私にも責任の一端があると強く感じたからだ。実は、中学に入ってから、甥っ子は登校拒否をするようになり、妹が少々困っていた。甥っ子に会って話してみると、特別以前と変わった様子もなく、プロ野球を目差してシニアリーグで頑張っている。その為、野球の練習で疲れてしまうから透谷拒否だということであった。以前にも、何度かこの甥っ子のことは書いたことがあるが、小学校で既に180センチ近い身長があり、横縦大人の様に大きい。大きいだけでなく、運動神経も悪くなく、リトルリーグではキャッチャーをしていたのだが、最後のシーズンは、ホームラン本数最多で表彰されたりもしていた。身体が大きいことも才能の内と思い、彼の夢が叶うように応援していた。実は、一昨日の喧嘩でも、野球ができなくなることを思い、彼は手を出さずにやられるままに我慢したのだ。実は7月2日が彼の誕生日で、誕生日カードに、虐めの実態を薄々知っていた私は、「嫌なことは、ハッキリ嫌といえばよい。自分が間違っていなならば、正々堂々と対峙すればよい」と書いてやっていたのだ。多分、甥っ子は、その言葉を実践したに違いない。「嫌だといったのであろう」正直に言えば、まともにケンカすれば、甥っ子の方が強いはずである。力も勝っているし、素早さも勝っている、同時に、万が一に備えて護身の術も多少教えてあった。だが、彼は我慢して手を出さなかった。それは、野球を止めさせられたくなかったからだ。素行不良であれば、チームから辞めさせられてしまうし、高校入学の為の野球推薦もしてもらえなくなってしまう。どれだけ悔しい思いをしたであろうか。

問題は、教師の対応である。今回の教師の采配は、私から見たら非常に理不尽だ。教育の現場で起こるべきことではない。確かに、甥っ子が相手を罵倒した言葉は汚かったのであろう。だが、好き好んでやられるために罵倒などしない。因縁を付けられたから、彼は彼なりに言葉で反撃し、「嫌だ」という意志表示をしたのであろう。ところが、暴力を振るわれるに至った。ところが、教師は、公平に喧嘩両成敗の采配を振るうのではなく、暴力を振るわれた甥っ子だけを悪く、暴力をふるった番長グループに一方的に軍配を挙げてしまったのだ。これは理不尽極まりない。甥っ子の成長期の経験としては、絶対にあってはならない経験だ。社会に正義はないと誤解してしまいかねない。そこまで思慮深く采配を振るうのが教師の務めである。

私の子供たちが通う私立校には、多くの公立校教師の子弟が通っている。そのような複数の公立校教師の親御さんから、公立校の実態を聞かされる。彼らは、公立校の教育現場には絶望しかないという。故に、自分の子供たちは、私立校に通わせていると言われる。教師同士の確執やら、日教組やら、枷が多すぎて、純粋に教育ができない状況にあるという。学校運営と教員との二重行政など、問題は山積だ。国歌斉唱や国旗掲揚と自分達の主張ばかりする公立校教師が多いが、子供たちの教育環境には無頓着だ。満足に子供たちを育むことすらできていないという。今回の事件で、その実態は露呈した。ある意味、教育現場の実態を改善する問題は、政治の最優先課題であるように強く思う。皆さんは如何お考えでしょうか? 
by seizaikai_club | 2012-07-05 09:17 | 教育

「いじめ」に関しての報道の在り方に大きな疑問

「いじめ」に関しての報道の在り方に大きな疑問
2006年11月13日

 ここ暫く「いじめ」の問題やら未履修問題やら、ニュース番組でもワイドーショーでも教育関係の話題一色だ。教育の問題を、話題にすることはよいことである。今、全国民が、教育の問題を真剣に考え、改革していかなければならない時にきていることは間違いない。

 しかし、その報道姿勢には、もう少し配慮があってもよいのではないか。何でもかんでも、他社との競争で、垂れ流し状態で報道すればよいという問題ではない。報道したことによって影響がでるような、非常にセンシティブな問題である。

 例えば、「いじめ」予告の手紙についての報道や、「いじめ」が原因での自殺という問題の報道である。こういうことを無節操に報道すれば、必ず模倣犯的な便乗犯が出てくることは予想がつくことだ。また、いじめたり、いじめられたりしている子供達は、大人の注意を引きたいのだ。大人に耳を傾けてほしいのだ。大人やマスコミが騒げば騒ぐほど、伝播し、連鎖的に自殺予告や自殺は全国的に広がる。

 豊島区の消印で投函されたので、豊島区内の学校を中心に警戒している、などと盛んに報道している。しかし、そこまで報道する必要がどこにあるのだ。悪戯に、騒ぎを大きくしているだけだ。そのような手紙があったことをマスコミにリークする関係機関も関係者も、問題だ。こんなに騒ぎが大きくなれば、出てきたくとも出てこられるはずがない。どんどん、問題は水面下に沈殿してしまう。

 大体、豊島区の消印があったから豊島区内の学校を、などという発想も非常に浅はかである。豊島区池袋駅を経由する電車には、通学生が溢れている。山手線の駅なので、都内全域に及ぶ。また、池袋を経由する生徒には、都内だけではなく埼玉などの学校へ通う生徒も多いはずだ。また、池袋には学生達が都内全域近県からも沢山来ている。このような状況であるにも関わらず、安易に豊島区内の学校に限定するなどということ自体、非常に単純過ぎる発想ではないか。その上、テレビをはじめとするメディアで、あれだけ騒いでしまえば、出てきたくとも出てこられない。また、後追いする生徒達が出てくることも間違いない。もっと、教育というものを上辺だけでなく、真剣に関係者もマスコミも取り扱って欲しいものだ。
by seizaikai_club | 2006-11-13 17:35 | 教育

バランス感覚を失った日本の教育現場

バランス感覚を失った日本の教育現場
2006年10月31日

 ここのところ、教育現場に纏わる事件が連日報道されている。履修単位の問題、いじめの問題、どれもこれも自然発生した問題ではなく、ある意味人為的に起こった問題である。

 本来、教育現場というのは、偏向することなく、バランス感覚が常に保たれているべきである。ところが、戦後60年、日本の教育現場は、荒廃してしまったと言っても過言ではない。その根本には、日本人の精神を骨抜きにせんがための進駐軍による戦後政策が影響していることは間違いない。アメリカ人は、日本人の精神性に驚異を感じていた。彼らの思考回路では、到底理解できないことであった。だからこそ、骨抜きにしてしまうことが、今後再び日本をアメリカにとっての脅威として復活させないための道と思ったのだ。

 確かに、そのアメリカによる戦後政策の結果、日本は60年間平和を維持することができた。軍隊を必要とするような危機的状況に巻き込まれることもなかった。だが、そのような平和と引き換えに、日本人は魂を売ってしまったと言っても決して過言ではない。そのようなアメリカの戦後政策が、戦後60年にして、結実しているのである。アメリカも忘れていた、戦後政策の答えが、今、奇しくも日本の教育現場に症状としてあらわれている。

 一言で言ってしまえば、平和ボケしたが故に、教育現場でも五感が退化し、予期していなかった悲惨な事件が、次から次へと発生しているのだ。ある意味、アメリカの戦後政策は成功したのかもしれない。しかし、日本にとっては等閑にはできない重大なる問題に発展してしまったことは間違いない。

 戦後暫くの間は、日教組が強く、教育現場は荒れていた。自由の履き違えも甚だしい状況であった。大体、自国の国旗や国歌を認めない、とか掲揚したり斉唱したりしない、などということを教育現場で子供達に強要することの方が、教育という事柄を履き違えていること甚だしい。国旗や国歌を敬うな、と教育するような国が、世界中探してみても、日本以外に何処にあるというのだ。

 国旗を掲揚することが正しくないか、国歌を斉唱することが正しくないか、は成長した後子供達が独自に判断することであって、大人が、ましてや教師が強要するものではない。日教組の教師達は、国旗の掲揚と国歌の斉唱を学校で強制することに反対、と唱えているが、それは逆で、掲揚させず斉唱させぬことの方が、子供達へ対しての強制である。教師にその権利はない。

 大体、国旗を認めず、国歌を認めない、というのであれば、学校という教育現場でそのことを子供達に強要するまえに、まず国旗を変えようとか、国歌を変えようという議論を教育現場ではない場で為してからが筋であろう。無垢の子供達が勉学にいそしむべき学校という場で、一番の弱者である子供達を洗脳するような、そのようなことの方が非常識なことは一目瞭然である。そのことは、諸外国のメディアが、常に不思議に思い続けてきたことであった。

 昨今では、教育現場のバランスも少々変わってきた。以前のように、必ずしも日教組が強いというのでもない。日教組に所属する教師の数も年々少なくなってきた。それでも、尚、教育現場での問題は絶えない。何故ならば、やはり教育現場でのバランス感覚が欠如しているからだ。

 昔のように親は、教師を尊敬しなくなった。また、親に尊敬されるような教師も少なくなった。その結果、親は子供達の前で、教師の悪口を平気で言う。当然のことながら、そんな親による教師へ対しての批判ごとを耳にした子供達は、教師へ対して尊敬の念などもてなくなる。それどころか、教師を生徒が馬鹿にさえするようになってしまう。その結果、教室は荒廃する。教師によって、生徒達を纏められなくなってしまう。

 教師は、父母に攻撃されることをおそれ、信念を失う。その姿は、子供達に勘違いをさせる。教師は親がお金を払って雇っているのだから、自分達が言うことを聞く必要などない、と子供達は思ってしまう。

 同じようなことは、家庭内でも起こっている。母親は、子供達の前で、父親を罵倒する。その結果、子供達は父親を尊敬しなくなる。父親は家に居場所がなくなる。当然のことながら、家庭内では不協和音が生じる。そして、両親の不協和音を察知した子供達は、寂しさを癒やそうと、外へと目をむける。または、そのはけ口を、「いじめ」という形で、他人へと向ける。それらの行為は、どれも大人達や親達の行為の後姿を真似した姿なのである。

 教師は教師で、上と親しか見ず、生徒達へ目を向けない。クラスを上手く纏めたいが一心で、生徒の気を惹くために、生徒達が「いじめ」ている生徒を敢えてスケープゴートにしてしまう。本来、教師が救わなければならぬにも関わらず、いじめられた上に、教師にまでスケープゴートにされた生徒は、死を選ばざるを得ない状況に追い込まれる。

 「いじめ」によって死に追い込まれても、その後、その教師や学校長の態度は二転三転する。この期に及んで自らの保身や学校の存続のため、問題と正面から対峙しようとしない。記者会見を開き、ノウノウと「いじめ」が原因であるという証拠がないので、「いじめ」による死とは言えない、などと平気でのたまう。あのようなことを、記者会見の場で平気で言える校長は、教育者でもなければ、人間でもない、悪魔としか言いようがない。あのような人間を校長に奉る、現在の日本の教育現場に問題があることは誰の目にも明らかである。

 この教育現場で起こっている諸々の問題の解決策は、一つである。それぞれが、逃げず、真正面から対峙する。それだけである。小手先芸では、答えはだせない。その場凌ぎの対応でも、答えは得られない。子供達と真正面から対峙しなければ、この国の未来を支える子供達を救い出すことはできない。子供達を救い出すことができないということは、この国に未来が無いということに等しい。教師も、文科省の役人も、親も、全ての大人達も、そして、子供達も、思惑で言動せず、心で受け止め、心で感じ、心眼で見、心で聞き、心で語って、はじめて解決できる問題である。心で、対峙するしか解決方法はない。私は、強くそう思う。
by seizaikai_club | 2006-10-31 13:37 | 教育

「政治をもっと身近に」をスローガンにして、日本人にもっと「愛国心」を喚起すべく語る。
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政財界倶楽部代表  恩田将葉
 「政治をもっと身近に」をスローガンに、一人でも多くの日本国民が政治に関心を持ち、参加してくれるよう、執筆活動、出版活動等を通じ「愛国心」啓蒙活動をしている。国際化が進む世界の中で、日本の政治も若者の手で変革しなければならない!!

 政財界倶楽部代表恩田将葉は、 アメリカ合衆国カリフォルニア州で約9年間生活。その間、サン・フランシスコ州立大学(San Francisco State University, SFSU)国際関係学部で国際関係学と政治を学び、朝鮮半島問題専攻で卒業。その後、暫くアメリカで現地法人の会社(People Intertrade, Inc.)を経営した後帰国。帰国後は、記者と編集者を経て出版社である株式会社ぴいぷる社と株式会社政財界出版社、そして、夕刊紙「内外タイムス」を発行する株式会社内外タイムス社の社長に就任。活字業界一筋に生きてきた。現在は、経営から一歩引き、国際情勢ならびに政治を中心に、ジャンルを問わず執筆活動を継続中。プロの文士として、随筆、小説、脚本等あらゆる分野で執筆活動を展開し、文章を綴ることを天職としている。そのかたわら、日本に、嘗てのごとく「愛国人」を増やすべく、「政治をもっと身近に」をスローガンに、自ら「政財界倶楽部」を運営している。

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