忠孝礼をわきまえない小沢一郎の小さな器
2009年12月17日
民主党が政権を奪取して以来、出来るだけ暫くは静観し、あまり批判じみたことは言わぬようにと自らを戒めていた。だが、ここのところの鳩山総理や小沢一郎の暴走振りには大いに問題があるように思うのでペンをとることにした。
改革をしようと思えば、痛みも傷も伴う。それは仕方のないことだ。そのような自らが負う痛手を覚悟の上で改革を人は為すのだ。小泉改革の時もそうであった。もっと遡れば、明治維新の時もそうであった。改革進行中にゴチャゴチャ上げ足をとるほど、格好の悪いことはない。私はそう思っている。
だが、鳩山首相の母親との間で起きているお金の問題、そして、今回の天皇陛下に関わる小沢一郎の言動に関しては、黙って静観している訳にはいかない。勿論、現状問題がたくさんある。今のような慣例を継承してきた宮内庁にも大いに問題がある。だが、今回の問題は、そういう慣習を打破するという問題ではない。天皇陛下の尊厳に関わる問題だ。小沢一郎は、「天皇陛下を政治利用した覚えはない」と言い放ち、記者会見では逆切れしていたが、逆切れしたいのは国民の方だ。戦後60年間、国民も天皇家も、暗黙の了解で象徴天皇としての存在を認め継承してきた。そのような状況下、今までの政権は、決して天皇家を政治利用したことはなかった。また、天皇陛下をはじめとする天皇家の人々も、決して出過ぎた言動を為すことはなかった。寧ろ、皇室という閉鎖的な息苦しい環境の中で、耐え忍びながら生まれながらに背負った運命を受け入れ生きていらっしゃると言えるであろう。自由のない生活の苦しさは、経験した者にしかきっと理解できないであろう。天皇陛下や天皇家の人々の苦しみは、我々国民には容易に理解できないことだ。だからこそ、宮内庁はそのような天皇陛下をはじめとする天皇家の人々を守るということを役目として為してきたのであろう。そして、そのことを我々国民の多くも理解し受け入れてきた。
今回のことも中国の要人が天皇陛下に会うことが問題なのではない。天皇陛下が韓国を訪問することが問題なのでもない。そのことに至るプロセスが、あまりにも配慮の欠けた対応であったことに問題を感じるのだ。結果、天皇陛下はじめ天皇家の存在自体を軽んじたように、国民からも諸外国からもとられてしまう。実際に、多くの国民から、そのことに対し少なからぬ不満の声があがっている。
1か月前までに、というルールが云々ではない。そのことを気遣いなしに破ること自体が、日本国政府の驕りであり、自ら天皇制を否定しているかのごとく、諸外国政府にとられてしまうということだ。第一、あの小沢一郎の記者会見での宮内庁長官へ対しての物言いは、宮内庁長官に問題があったとしても、政治家として余りにも品位がなさすぎる。元々、小沢一郎に品位など期待はしていない。だが、もう少しましかと思っていた。630人の小沢チルドレンを引き連れての中国訪問などは、正に小沢一郎の親分田中角栄式「力の論理」を体現したのであろう。だが、その延長線上で、天皇陛下へ対してまでも、あのように高飛車なモノ言いをするということは、政治家としての資質の低さを露呈したとしか思えない。結局は、選挙屋であり政治屋でしかないということだ。いくら親方田中角栄を真似ても、結局は猿真似でしかなく、田中角栄とは月とスッポンということだ。一体、何様だというのだ。
一連の彼の言動を見聞すると、私が以前記事にしたように、やはり小沢一郎は、将来的に数の論理で力を振りかざし、自分の思い通りにならなくなったら、民主党を飛び出し小沢党を旗揚げするつもりであろう。そんな無言の威圧を、小沢派閥630人での中国訪問ということで体現したのであろう。勿論、鳩山首相をはじめとする民主党へ対しての威圧だ。同時に、最も親しい友人と田中角栄を賛美した中国へ対しては、小沢派閥の数による力の誇示であったに違いない。中国訪問からはじまり、今回の一連のお騒がせ言動は、そんな将来的な野望への序曲であったに違いない。私には、そのようにしか見えない。だとすれば、彼は既に破滅への道をたどり出しているのかもしれない。余りにも時代遅れな手法としか言いようがない。だが、そんな時代遅れが罷り通ってしまうのが、現状の日本の政治システムなのだ。何とも嘆かわしい。
そんな小沢一郎を背負い、お山のバカ大将亀井静香に足を引っ張られる鳩山首相は、普天間どころではないのだ。政権発足数カ月にして、もう既に民主党ではなく無主党になってしまったのだから。今こそ、他人に流されず、何も恐れず自らの信念と決断により、リーダーシップを発揮し名誉挽回する時ではないか。私は、そんな風に思う。