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政財界倶楽部         (恩田将葉見聞録)

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作家の百瀬博教先生が急逝

作家の百瀬博教先生が急逝
2008年2月3日

 昨今、何故か親しい方々が急逝されることが多い。昨年は、やはり昔随分と親しくさせて頂いていた木原光知子先生が急逝され驚かされた。このような状況下、記事を書くか否か随分と迷った。しかし、やはり書かせて頂くことにした。それが故人へ対しての、何よりの弔いになるような気がしたからだ。

 丁度一週間前の1月27日日曜日午後3時半過ぎ、作家の百瀬博教先生が急逝された。同日、午前2時半頃、自宅湯船で意識を失っている百瀬先生を発見した知人の119番通報で病院に搬送された。だが、治療の甲斐もなく他界されたということだ。そのニュースが、翌28日一部中央紙や夕刊紙、そして、地方紙を中心に流れた。突然の訃報であった。

 百瀬先生とは、色々な思い出がある。ここ暫くは、少々お互いに距離をおいていた。しかし、2年ほど前までは、出版プロデューサーの高須基仁氏と共に随分と可愛がってもらっていた。私と高須氏の間で、金銭貸借に関する裁判等が勃発したりしたこともあり、最近は少々ご無沙汰を重ねてしまっていた。

 一言で百瀬先生のことを表現すれば、「オチャメな人」ではないかと私は思う。こんな言い方をしたら、百瀬先生に失礼ではあるが、私の目にはそんな風に映っていた。

 ご尊父は、柳橋の侠客百瀬梅太郎親分だ、と仰っていた。百瀬梅太郎親分といえば、無名時代の力道山などを面倒みていたことで知られる親分である。昔は、新橋辺りを縄張りにしていたが、何かの理由により柳橋へ移ったというようなことを説明していらっしゃったように記憶する。勿論、百瀬先生は、侠客ではなかった。しかし、その名残で、鳥越祭では、百瀬組のハッピを纏い、全身に刺青を入れた若衆に囲まれ、多くの芸能人や文化人を招き、祭りを盛り上げていた。秋元康氏をはじめ、安西水丸氏、見城徹氏、木滑良久氏、花田紀凱氏などは、常連でいつも顔を見せていた。

 私と百瀬先生の出会いは、随分前になる。弊社の先代の紹介であった。弊社では、毎年、今はなき東急キャピタル・ホテルやホテル・ニューオータニで、政財界や芸能関係者を招待し、1000人近くの人々が集う盛大なパーティーを催していた。その席に、いつも同じキャップを被った威勢のいい大男がいた。それが百瀬博教先生であった。パーティーの出し物である神輿や矢切などを仕切っておられた。雑誌創刊何周年か会社設立何周年かで、例年になく盛大なパーティーが催された年、そのパーティーの席で、俳優の安岡力也氏を従えた百瀬先生を、我が社の先代が私に紹介してくれた。滅茶苦茶明るくてナイスな人、というのが私の第一印象であった。それから、随分と可愛がってもらうようになった。百瀬先生の青山のペント・ハウスに伺わない週はないぐらい、一時は頻繁に先生宅を訪れていた。

 兎に角、物凄い蔵書である。よく床が抜けないな、と思うほどの本の数だ。それと、色々な珍しいコレクターズ・アイテムが家中に点在していた。コレクターが見たら、涎を垂らすに違いない。その種類も数も、半端ではなかった。中でも、スノードームの数は、群を抜いていた。スノードームのコレクターとして、百瀬先生は知る人ぞ知る世界的な第一人者であった。

 それだけではない、色々なモノが沢山あった。私が一番感激したのは、やはり石原裕次郎関連のグッズと、力道山関連のグッズであった。弊社で写真集をだそうという話があったので、隈なく見せて頂いた。兎に角、数も凄いが、その内容が凄かった。ただのコレクションではなく、それらのコレクションには、百瀬先生と石原裕次郎、そして、百瀬先生と力道山の歴史が刻まれているようなモノばかりであった。両者と百瀬先生の絆の深さを感じさせる貴重なアイテムばかりであった。

 百瀬邸に、所狭し、と点在する膨大な数のコレクターズ・アイテムは、それ自身が、「百瀬博教」という男を表現しているように私には思えた。何とも、素敵な感じであった。特別な装飾がされているわけではない。雑然とあちらこちらに置かれているだけである。ところが、それぞれのアイテムが、ちゃんと主張していた。何とも、可愛くて、格好よく、素敵なのである。そして、百瀬先生自体、「素敵」という言葉が大好きであった。そんなところにも、百瀬先生の繊細な感性を私は感じていた。

 百瀬先生の格好良さは、前述したような繊細さやオチャメな一面が、彼のキャラクターでありながら、実は非常に侠気(おとこぎ)が強く、仁義忠孝礼を重んじる昔気質(むかしかたぎ)な部分を併せ持つギャップであったように、私は思っている。少なくとも、私は、百瀬先生のそんなところが、凄く好きであったし、格好良くも思っていた。自分も、あんな風に在りたいな、と思っていた。

 ある意味、その昔気質(むかしかたぎ)な部分は、周囲の人間達からは強面な部分と受け止められていたのかもしれない。しかし、それは、百瀬先生自身が、上手く使い分けていたに違いない。そのバランスによって、人々を惹き寄せていたと私は思っている。その辺のバランス感覚も、非常に繊細で優れていた人のように思う。ただ、そんな強面な一面を持ちながら、あれほど用心深く慎重な人を、私は他に知らない。玄関の扉に取り付けられた内鍵の多さには、誰もが驚かされたはずである。内側からしか、施錠できない鍵が少なくとも10個はあった。在宅時は、その全てを必ず施錠していた。また、電話も、ファックスしかできない。ファックス後、百瀬先生の方から電話があるというのが唯一許されたパターンであった。例外として、直接電話をさせてもらうこともあったが、ごく限られた人々だけに許されていたことであったように思う。

 芸能界や出版界、そして、マスコミというのは、ある意味、綱渡り産業である。表の顔と裏の顔を上手に使い分け、奈落の底には落ちぬようバランスを取りながら綱の上を巧みに渡っているような業種である。そんな業界の微妙な隙間を上手に縫って、独特な居場所を確立した百瀬先生は、独自の百瀬人脈を作り上げ、百瀬流を通していた。来る者は拒まず、去るものは追わず。だが、そこにはちゃんと、百瀬先生なりの基軸が存在していた。それも、多分、百瀬先生自身の感性によるところが大きかったように思う。唯一弱点は、名声に少々弱かったというところかもしれない。有名人が好きであったし、有名人は優先されていた。

 百瀬先生は、人を喜ばすことが好きであった。私は、そんな風に思っている。私も、大分ご馳走になった。何気ないのだが、そのご馳走のしてくれかたも凄くお洒落であった。それなりのコダワリがあり、何とも素敵であった。そして、その作法も、やはりオチャメで格好良かった。当然、連れて行ってくれる店にも、コダワリがあったようだ。そして、必ず、何処へ行っても百瀬先生は人気者であった。人を分け隔てせず、気さくに誰とでも接する、百瀬先生の人徳を垣間見ることができた。ただ、中々策士な部分もあった。人と人を無闇に混ぜ合わせることはしなかった。ちゃんと、全て彼の頭の中で考え、仕切って、先を考えて人と人を結び付けていたように私は感じている。

 最後に、百瀬先生のトレード・マークといえば、ご承知の通り、やはり「Forever young at heart」と刺繍されたキャップである。先生は、いつでもあのキャップを被っていた。人前で、あのキャップを脱ぐことはなかった。誰もが、あのキャップの内側を見てみたいと思っていたに違いない。多分、キャップの内側を目撃している人間は、そう多くないはずだ。光栄にも、私と高須基仁氏は、その数少ない人間である。元々非常に仲良くしていた私と高須氏の間で勃発したトラブルを解決してくださろうと、奔走してくださった時のことであったように記憶している。作家の大下英治氏に紹介され以前より高須氏のことは知っていた。だが、それほど親しくもなかった。しかし、百瀬先生の紹介で高須氏と再会し、先生の指示で急接近したという経緯があった。そんなこともあり、百瀬先生も、二人の間の問題には、頭を悩ませて下さっていた。見方を変えれば、二人の前で帽子を脱いだということは、そこまでしても私と高須氏の二人を仲直りさせたかったのかもしれない。そんな百瀬先生の気も知らず、二人に気を許してくださっていたのだな、と私は勝手に喜んでいた。だが、その実、先生としては、いい加減、呆れ果ててキャップを脱いだ、という意味であったのかもしれない。いずれにしても、帽子の中身に関しては、永久に封印することとする。それが、百瀬先生への礼儀であると、私は思っている。それぐらいしか、百瀬先生が他界してしまった今となっては、百瀬先生へ対してできることはない。謹んでご冥福をお祈りする。合掌
by seizaikai_club | 2008-02-03 18:49 | 今日の独り言
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「政治をもっと身近に」をスローガンにして、日本人にもっと「愛国心」を喚起すべく語る。
by seizaikai_club
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政財界倶楽部代表  恩田将葉
 「政治をもっと身近に」をスローガンに、一人でも多くの日本国民が政治に関心を持ち、参加してくれるよう、執筆活動、出版活動等を通じ「愛国心」啓蒙活動をしている。国際化が進む世界の中で、日本の政治も若者の手で変革しなければならない!!

 政財界倶楽部代表恩田将葉は、 アメリカ合衆国カリフォルニア州で約9年間生活。その間、サン・フランシスコ州立大学(San Francisco State University, SFSU)国際関係学部で国際関係学と政治を学び、朝鮮半島問題専攻で卒業。その後、暫くアメリカで現地法人の会社(People Intertrade, Inc.)を経営した後帰国。帰国後は、記者と編集者を経て出版社である株式会社ぴいぷる社と株式会社政財界出版社、そして、夕刊紙「内外タイムス」を発行する株式会社内外タイムス社の社長に就任。活字業界一筋に生きてきた。現在は、経営から一歩引き、国際情勢ならびに政治を中心に、ジャンルを問わず執筆活動を継続中。プロの文士として、随筆、小説、脚本等あらゆる分野で執筆活動を展開し、文章を綴ることを天職としている。そのかたわら、日本に、嘗てのごとく「愛国人」を増やすべく、「政治をもっと身近に」をスローガンに、自ら「政財界倶楽部」を運営している。

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