東電の危機管理意識今昔物語
2011年5月28日
東電の危機管理意識に大きな疑問を感じる。今の東電は人命優先という危機管理ではなく、会社存続優先の危機管理に変容してしまった。嘗て、総務が主流を務めていたころ、私は東電に出入りしていたが、あの当時の総務の危機管理意識は、日本の企業とは思えぬほど高く、実際に危機管理を多方面に渡って行っていた。ところが、今の東電、技術畑である企画室が主流の東電の対応には、昔の東電とはまったく違い、人命よりも会社存続が優先されている危機管理であることが、言動の端々に露呈している。これでは、国民を納得も説得もできない。
嘗ては、良い意味でも、悪い意味でも、広く平等に危機管理として政治家や霞が関の役人たちとの繋がりを持っていた。そうすることで、万が一が起こった時に、初対面ではなく顔見知りということで、対応が変わってくるという楔を打っていた。ところが、現状を見ていると、今まで一心同体で同じ穴の貉であった通商産業省に帰属する原子力監視委員会とさえも、ギクシャクとした状況が露呈している。もう見るに堪えない。原子力監視委員会の面々と東電の面々の罪のなすり合い、ここにきての確執は、国民にとってはまったく意味がなく、何の生産性もない。原子力監視委員会の面々も、偉そうにいっているが鼻薬をかがされているではないか。今になって手の裏を返しても、その罪は拭えない。立入検査と言いながら、ゴルフ三昧で判を押すだけの馴れ合い体質が、こういう事態を招いた一因でもあるにもかかわらず、自分たちの責任ではないという姿勢は、言葉は悪いが胸糞悪くなる。こういう時だからこそ、的確な指導をするのが役目ではないのか。多分、それだけの実力が、実際にはないということであると私は思っている。大きな疑問を感じる。
東電は、事故に対する危機管理よりも、会社存続のための危機管理を優先している。これは、トップの人柄に起因するところが非常に大きいように思う。人命を最優先にしないようなトップだから、こんな時期に逃げ出すことばかり考え国民を犠牲にするのだ。山一証券最後の社長の涙を思い出す。これは、日本の企業の悪い体質だ。何と責任感のないことだ。呆れ果てる。
東電は、歴代総理大臣からはじまり、党派を超えて隈なく政治家たちや霞が関の官僚たちに鼻薬をかがせ続けてきた。メディアも例外ではない。多くの広告を出稿し、各週刊誌の編集長クラスをも接待し鼻薬をかがせている。そんな危機管理が、国民にとってはマイナスに働いている。正しい情報を得ることができず、苦しんでいる被災地の人々。結局は、一部の特権階級が良い思いをし、庶民に皺寄せがいっている。その罪は非常に重い。自らも深く反省し、関係した各界諸氏には国民の側にたつことをお願いしたい。今こそ、過ちを正し日本のシステム全てを立て直す時である。特に、電気事業行政は、一旦白紙にして建て替えるチャンスであり、そのことが全ての業界にある旧態依然とした体制を改革する切っ掛けになることを期待する。