尖閣諸島の歴史 第五話
2010年9月17日
このような状況を踏まえて上で、尖閣諸島問題をより深く理解するために、その歴史を少し紐解いてみよう。
尖閣諸島は、古くから琉球民族に知られており、大正島(国有地)は久米島から近いことから、19世紀合半あたりから久米赤島と呼ばれるようになっていた。
尖閣諸島の名称は、西欧諸国が通商の目的で来覇した軍艦が作成した海図や水路誌の中にも記述されている。が、しかし、我が国が1895年(明治28年)に領土編入措置の閣議決定を行うまで、いずれの国の領有にも属さない地域として、国際法上無主地であった。明治維新後の1872年(明治5年)に琉球王国は琉球藩となり、1874年(明治7年)に内務省の直轄となり、1879年(明治12年)に琉球藩が廃止となって沖縄県となった。同年3月に発刊された「大日本全図」(松井忠兵衛編)は私人が作成し、内務省の版権免許を得て観光されたものであるが、この地図には、「琉球諸島」の中で「尖閣列島」として記載されている。
1884年(明治17年)には福岡県八女郡山田村出身の古賀辰四郎氏が絶海の無人島に調査団を派遣し、その後には、漁業、べっ甲の捕獲、貝類、アホウドリの羽毛の採取を行っていた事実がある。1884年(明治18年)9月22日、沖縄県知事は、出雲丸による実態調査を行うにあたって、尖閣諸島に国標を建立すべく内務省に上申書を提出したところ、内務省は「沖縄県が実態調査の上、国標を建立することは差し支えない」という見解を示した。つまり、尖閣諸島は、どこの国からも領土権を主張されておらず、いまだ無主地である内務卿も考えていたのであった。
日本政府は、1885年(明治18年)以来、沖縄県当局を通じるなどして、尖閣諸島の実地調査を行い、「この諸島が清国に所属する証拠がない」と判断した後、1895年(明治28年)占有論によって日本の領土として閣議決定した。
1884年(明治17年)に、尖閣諸島に調査団を派遣した古賀辰四郎氏は、翌1885年(明治18年)から二度にわたって、魚釣島など四島の「借用願」を政府に申請していた。10年間を経過した1895年(明治28年)に、政府が尖閣諸島の領土編入措置を決定したことから、翌1896年(明治29年)9月に、ようやく同諸島(国有地)のうち四島を、30年間無料貸与される許可を受けることが叶った。
尖閣諸島の借用許可を受けた古賀氏は、翌1897年(明治30年)から、大規模な資金力により、大阪商船須磨丸を諸島に寄港させ、開拓に着手した。1902年(明治42年)には、これらの功により、古賀辰四郎氏に勲章「藍綬褒章」が授与された。その後、島の開拓は、古賀辰四郎氏の子息である古賀善次氏に継承され、全盛期には、200人を超す人たちが魚釣島に居住して産業開発に努めた。
1926年(大正15年)、30年間の無料貸与期間が満了になったことにともない、以後1年契約の有料貸与に改め、1932年(昭和7年)3月31日、日本政府は、古賀氏に、尖閣諸島の中の四島を有料で払い下げた。しかし、古賀氏の事業も第二次世界大戦直前には、船舶燃料が配給制となったため、渡島ができなくなったことから廃止となり、今日を迎えた。
そのような状況下、1978年(昭和53年)に、武装した中国漁船団が、尖閣諸島の領海を侵犯し、海上保安庁の巡視船「やえやま」を威嚇するという事件が起こった。この事件を契機に、弱腰な姿勢を続ける日本政府に業を煮やした日本青年社という政治結社が、自費にて日本の領土を守るべく立ちあがった。そして、同年8月11日午後3時15分、5名の日本青年社勇士が、尖閣諸島魚釣島に上陸し灯台を建立した。翌8月13日、日中平和友好条約調印の日に、初めて灯台に「尖閣の灯」すなわち「日本の灯火」が点灯された。この時、建設した灯台の光達距離は、20キロメートルであった。以来27年間、一度も休むことなく、灯台の保守・点検を日本政府に代わって日本青年社が自費で続けた。そして、2005年(平成17年)、小泉政権下、魚釣島の灯台は、日本青年社から日本政府へと移譲された。その際、日本青年社から出された移譲の条件は唯一つ、日本政府が責任を持って日本の領土である尖閣諸島を死守するということであった。
※この記事は、私自身の執筆により、2005年3月号「月刊政財界」に掲載されたものを、一部新たに加筆修正したものである。