政財界倶楽部         (恩田将葉見聞録)

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秀吉と琉球と尖閣諸島

「秀吉と琉球と尖閣諸島」

 まず尖閣問題の現状に触れ秀吉の時代に移行する。
 現在中国と台湾により領土問題を主張されているが、日本政府は一貫して尖閣諸島に領土問題は存在しないと主張している。その根拠は、歴史を繙くと理解できる。
 明治維新後の一八七二年(明治五年)に琉球王国は琉球藩となり、一八七四年(明治七年)に内務省の直轄地となり、一八七九年(明治十二年)に琉球藩が廃止となって沖縄県となった。
 同年三月に英文発刊された「大日本全図」は柳田赳によって編纂され松井忠兵衛という私人が英文で刊行し内務省の版権免許を得た。この地図に、「琉球諸島」の中に「尖閣列島」として記載されている。
 時を同じくして、一八八四年(明治十七年)、福岡県八女郡山田村出身の古賀辰四郎が絶海の無人島である尖閣列島に調査団を派遣し、その後、自ら漁業、鼈甲の捕獲、貝類、アホウ鳥の羽毛の採取を行っていた。
 そのような状況下、一八八四年(明治十八年)九月二十二日、沖縄県知事は、尖閣諸島の実態調査を行うに当たって、尖閣諸島に国標を建立することを上申したところ、内務省は「沖縄県が実態調査の上、国標を建立することは差しつかえない」との見解を示した。 
 当時、中国からも、台湾からも、他のどこの国からも、領土権を主張されておらず、未だ無主地であると内務卿も考えていた。その後日本政府は、沖縄県当局を通じ、数々の尖閣諸島実地調査を経て、「この諸島が清国に所属する証拠がない」と判断した後、一八九五年(明治二十八年)占有論によって、尖閣諸島を日本国の領土として閣議決定した。
 そして、この時以来、国際的にも、国際法上も、海洋法上も、正式に尖閣諸島の各島々は日本国領土となった。
その後、諸々の歴史を経て、最初に尖閣諸島に調査団を送った古賀辰四郎氏に、一九三二年(昭和七年)三月三十一日、日本政府は尖閣諸島の内四島を有料で払い下げた。古賀氏は、尖閣諸島開拓への功績が認められ一九○二年(明治四十二年)藍綬褒賞を授与された。そして現在に至っている。
しかし、一九六八年(昭和四十三年)十月十二日より同年十一月二十九日までの間、国連海洋調査団がこの海域の海洋調査をおこなった。その結果が一九六九年(昭和四十四年)五月に国連アジア極東経済委員会(ECAFE)によって公表され、この地域に眠っている海底資源が一躍脚光を浴びた。
 その直後、中国と台湾が、尖閣諸島の領有権を主張しだしたのだ。この時、アメリカ合衆国は沖縄返還前の故佐藤栄作元総理に対し、この地域の海底資源共同開発を提案したが、故佐藤元総理はアメリカの申し出を足蹴にした。その腹癒せに、アメリカのガルフ・オイルの子会社パシフィック・ガルフ社は、一九七○年(昭和四十五年)七月、台湾政府に対し、尖閣諸島を含む台湾北東海域の深海調査権を許可した。このことが発端で、中国、台湾が領有権を日本に対し主張するようになった。
 歴史に仮説はあり得ないが、結局日本独自で全くこの海域の開発を行わなかったのだから、アメリカの提案をこの時受け入れ開発していれば、アメリカ人が日本領土である尖閣諸島で働いているということで、尖閣列島を明確に日本領土として第三国アメリカが証人となり、しかも領土防衛という意味で、台湾も、中国も問答無用で手出しができない状態になっていたことは明らかだ。これらの事実関係を踏まえた上で、豊臣秀吉の時代に話を戻すこととする。

 一五八九年、関白秀吉は、琉球に対し入貢を要請した。当時秀吉は、既に朝鮮出兵のことで頭が一杯であった。そのために、一五九一年には、軍役、兵糧米などを琉球に要求した。
ところが琉球は、要求の半分のみを満たした。その結果、秀吉は、琉球を快く思わなくなり、結果として、島津家による琉球征服を認めた。
 結局一五九二年、秀吉は、琉球を島津家の「与力」として、その軍事指揮下に附属させることを認めた。以来、薩摩島津家では、当時アジア全域の貿易拠点として成り立っていた琉球を支配することになり、砂糖などの豊富な財源を得る事になった。

 琉球王国は当時既に、東アジア地域における大切な貿易拠点となっていた。だが、貿易に好立地な琉球であったが、反面、中国、台湾、日本と大きな力に翻弄されながら生き残りを掛けて成り立っていた。そんな生き残りの知恵が、琉球を三分割して王を別々に立てていたことなどにも見て取ることができる。
 そんな状況下、尖閣諸島と琉球の関係は、歴史的にも非常に長い。それは、琉球と中国の外交歴史の中にもハッキリと登場し、冊封使が残した冊封使録の「中山傳信録」「順風相送「使琉球録」などにも登場する。
この冊封使とは、琉球の国王であることを中国の皇帝から承認してもらうことを「冊封」といい、中国から派遣される使節のことを冊封使といった。
 その中で、「朝貢」、外国からの遣いに対し、その要求に応えて貢物を差し出すことをいい、琉球が行った「朝貢貿易」とは、中国が中華思想に基づいて行った貿易形態で、中国が指定した内容に従って行う貿易の形態をいっていた。
 このことに、秀吉は目を付け、琉球を中国との板挟みにし「入貢」を迫ったのだ。困った琉球は、半分だけ応じたということだ。

 この冊封使の行き来に当たって、尖閣諸島は琉球と中国の間の目印として記録されている。だが、これらの資料から読み取れる尖閣諸島の領有権には賛否両論があり、其々の学者の立場により意見が分かれる。
 特に、久米島を挟んで以南か以北か琉球領と中国領を分けて解釈される場合が多いようだ。しかし、その根拠は明確でない。「琉球に戻ってきた」「中国に戻ってきた」というような記述だけだ。明確なことは、当時から無人島であり、中国は石高のないこれらの島々に海底資源があることを知るまで関心がなかったということだ。
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by seizaikai_club | 2013-06-11 18:34 | 歴史

「政治をもっと身近に」をスローガンにして、日本人にもっと「愛国心」を喚起すべく語る。
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政財界倶楽部代表  恩田将葉
 「政治をもっと身近に」をスローガンに、一人でも多くの日本国民が政治に関心を持ち、参加してくれるよう、執筆活動、出版活動等を通じ「愛国心」啓蒙活動をしている。国際化が進む世界の中で、日本の政治も若者の手で変革しなければならない!!

 政財界倶楽部代表恩田将葉は、 アメリカ合衆国カリフォルニア州で約9年間生活。その間、サン・フランシスコ州立大学(San Francisco State University, SFSU)国際関係学部で国際関係学と政治を学び、朝鮮半島問題専攻で卒業。その後、暫くアメリカで現地法人の会社(People Intertrade, Inc.)を経営した後帰国。帰国後は、記者と編集者を経て出版社である株式会社ぴいぷる社と株式会社政財界出版社、そして、夕刊紙「内外タイムス」を発行する株式会社内外タイムス社の社長に就任。活字業界一筋に生きてきた。現在は、経営から一歩引き、国際情勢ならびに政治を中心に、ジャンルを問わず執筆活動を継続中。プロの文士として、随筆、小説、脚本等あらゆる分野で執筆活動を展開し、文章を綴ることを天職としている。そのかたわら、日本に、嘗てのごとく「愛国人」を増やすべく、「政治をもっと身近に」をスローガンに、自ら「政財界倶楽部」を運営している。

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