政財界倶楽部         (恩田将葉見聞録)

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育児とは、教育とは

育児とは、教育とは
2012年7月27日

 大津でのいじめ自殺事件以来、教育現場に嵐が吹き荒れ、今まで見て見ぬ振りをしていた教師たちが浮足立ち、日本全国でいじめの問題が動き出した。予想はしていたが、多くの子供たちが、いじめに苦しんでいることが今更ながら広く知られた。教師や親は見て見ぬ振りをして、子供たちは行き場を失い、どうしてよいかもわからず自ら命を絶っていくという、あってはならない現実が此処其処にあることもわかった。

 理由はどうあれ、自身の保身のため、事なかれ主義で彼ら被害児童を見捨てていた罪は重い。だが、これだけは言っておきたい。教師全てがダメ教師になったのではない。一生懸命子供たちと対峙し、日々汗を流し、プライベートの時間を惜しんで子供たちと向き合っている先生も日本中には沢山いるということを。

 そもそも、育児とか教育には、正解もマニュアルもない。手探りで、正直に子供たちと対峙しながら為していくしか方法はない。十人十色、十人子供がいれば、育児や教育の方法は十通りあるといっても過言ではない。だが、そうはいっても、教育や育児ということの基本が、わかっていない大人が現代社会には多いように思う。そのことが、この国を危機的な状態に導いているとさえいえる。大人自体が大人でありながら、どこか子供のようなところがある現代日本人。本来無垢の子供たちにとって、唯一の社会は学校であり、一番身近な大人は教師や親である。だが、その教師や親との信頼関係自体が希薄なため、子供たちは多くの試練を昔よりも負わなければならなくなっている。

 確かに子供たちは、案外狡賢いところもある。その辺のことを導くのも、ある意味親や教師、大人たちの役目である。本来、育児や教育は、社会全体の責任である。子供たちは、社会の宝であるのである以上、自分の子供だけでなく、子供たち皆に目を配り、その場その場で臨機応変に声を掛けたり、アドバイスを与えたりして然るべき。だが、現代社会では、その辺の受け皿が、子供たちに対して希薄になってしまっている。故に、今回のいじめ加害者のような児童が、注意されることもなく育ってしまうのだ。そもそも、誰よりも、彼らの親が、一番彼らが何をしていたかわかっているはずである。にもかかわらず、注意したり、叱咤したりするのではなく、無意味に庇うという状況にあること自体、非常に由々しき問題である。仮にも一人の児童が亡くなったのである。しかも、自分たちの子供たちが加害児童であるにもかかわらず、彼らの行動を糺すのではなく、庇い弁護するというのでは、彼ら加害児童こそ、親や教師や大人による甘やかしの被害者であり、彼らの将来には、非常に危ういものを感じる。この期に及んで、学びを得ることができず、嘘とだましで、今回のことを乗り越えることを学んでしまえば、今後の彼らの人生は、どのようなものになるかは目に見えている。学べない子供たちほど、可哀そうな存在はない。教育とは、子供たちに、できるだけ多くの選択肢を与え、子供たち自身に、その選択肢を思考選択させ、その都度、間違った道に進まないように軌道修正してあげることが、大人の役目である。にもかかわらず、彼ら加害児童の親や教師たちは、軌道修正するどころか、事実を捻じ曲げ、偽善で彼らの行為を正当化しようとしている。このことは、今後彼らをモンスターにしてしまう可能性が非常に大きく、その責任は、教師のみならず彼らの親に対しても非常に大きい。

 そもそも、日本の教育や育児の現場は、長年偏ってしまっている。どういうことかと言えば、父親は働き手として、外で汗水流し仕事のみに集中している場合が多い。最近になって、父親も育児に参加する傾向が若い世代には出てきたが、高度経済成長以来日本では、育児は母親任せという場合が非常に多い。だが、それは間違っている。父親も、母親も、同じように子供たちと向き合うことで、バランスのとれた育児教育ができる。そういいながらも、我が家は片親で長年やってきているので、偉そうなことは言えないが。一つだけ明確に言えることは、父親の育児参加も、非常に必要不可欠な要因であることは間違いないということだ。

確かに、昔のような、高い目線からの教育や育児も必要かもしれない。親を敬い、教師を敬い、目上を敬うような。しかし、それは儒教的な教えの部分で、年がら年中、強要して押し付けるべきものではない。必ずしも親が全て正しくはないのだから、親も子供も、同じ高さの目線にたち、何でも話し合える状況を確立することの方が、子供にとっても、親にとっても、幸せである。何故そういうことが必要かと言えば、教育や育児では、急ぎ焦るのではなく、時間を掛けて、お互いに何でも話し合い物事を解決するということが、非常に大切なことであるからだ。

 昨今の学校教育では、知識を詰め込まなければならないために、本来思春期の子供たちが、多感な時期に学ばなければならない、人が生きていくに必要な諸々のことがらを学ぶ時間がないという致命的なことになっている。一時ゆとり教育と文部省が提唱していたが、あれは「ゆとり」という意味をはき違えている。本来教育における「ゆとり」とは、遊ぶ時間の「ゆとり」ではなく、物事を思考し、話し合う充分な時間という意味での「ゆとり」でなければならない。ところが、正反対のことが為されてしまった。

 教育や育児で一番大切なことは、焦らず、押し付けるのではなく、ゆっくりと見守る余裕である。今この時を焦って一歩早く歩みを進めても、子供たち自身が納得できておらず、腑に落ちていなければ、それは本当の意味での学びにはならない。上辺だけの偽りの学びにしかならない。今の公立校の教育現場では、そんな偽善の教育が蔓延してしまっているように思う。子供たちは、何を信じてよいのかもわからなくなってしまっている。本来、一番彼らが信じられる親さえ信じられなく、身近にいる教師さえもが信じられない、事なかれ主義になってしまっている。本当に子供たちにとっての救いがなくなってしまっている。極めて悲しむべき危機的状況に、多くの学校現場が陥っているように強く思う。知識などというものは、本人がその気になれば、いくつになったって学ぶことができる。だが、生きるということの大切な学びは、多感な思春期、中学校、高校の時代にしか学べないことなのだ。この時期に、どれだけ思考し、悩み、物事の本質を議論することによって、彼らの未来は、比べものにならないほどの可能性を生み出すことができる。

 育児や教育は、部活動ではない。上から押し付けるのではダメなのだ。そんなことをしても、身体の芯には染み込まないし、学びにはならない。子供たち自身が納得し、自ら腑に落とすことで、本当の意味での学びを得るということになるのだ。そのことを誤解している親や教師が非常に多いように思う。

 子供たちは、親の操り人形ではない。思い通りにはならないのだ。人格もあり、個性もあり、独自の思考もある。それを親の勝手な思いで、縛り、無理矢理方向性を付けても、そのことが子供にとって本当の幸せであるかどうかは、非常に大きな疑問である。どんなことであっても、子供たちが自ら望み、納得し、本当に腑に落ちれば、どんな苦労でも、一生懸命に尽くすであろう。そのことを学ばせてあげた方が、彼らにとっては100倍幸せなことだ。もし親である大人が、上司に力づくで、押さえつけられ、自分の望むことでないことを強要されたら、貴方は幸せであろうか? まったく同じことである。親であっても、そこまでの権利はないはずだ。彼らが自身の力で学びとり、納得し、腑に落ちれば、彼らの人生は、どれだけ幸せで可能性が大きいものになるか。大人のエゴで、自由を奪ってはいけないと私は思う。

 最後に、今の大人たちは、自由ということを大いに履き違い誤解している。自由ということには、責任ということも、同時に求められるのだ。子供に大人のエゴを押し付けるのは良いが、それでは彼らの未来に、親や教師であっても責任を持てるのであろうか。大いに疑問を感じる。自立するということとは、正反対のことであるように私は強く思う。
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by seizaikai_club | 2012-07-27 21:35 | 教育

金正恩の立場と本音

金正恩の立場と本音
2012年7月22日

 突然の朝鮮人民軍総参謀長リ・ヨンホの解任のニュースが、先週世界中を駆け巡った。北朝鮮内部で、大きな動きがあるのではないかという憶測が飛び交い、日本を含め多くの関係国が固唾を飲んだ。だた、実際には、真実を未だ読み取ることできずにいる。その直後、金正恩が元帥の称号をえられたというニュースが再び世界を駆け巡った。その他にも、金正恩の傍らに付き添う女性が妻なのか妹なのかという話が、同じ頃人々の興味をひいた。どれもこれも、憶測でしかない。だが、それらの目に見える事実を客観的に分析すると、自ずといくつかの答えが見てくるように思う。

 報道直後、短絡的に誰もが考えたことは、中国寄りの叔父チャン・ソンテクと軍部の権力者リ・ヨンホ氏の確執が形となり、結局リ・ヨンホが負け失脚することになり、一挙にチャン・ソンテクの勢力が政権内部の大きな力にとってかわったのではないか、ということだった。だが、冷静にこれらの動きを見聞しつつ、金正恩の経歴に思いを巡らし、彼の立場を鑑みれば、ある答えが自然と出てくるように私は思えてきた。それは、政治的でも、軍事的でもなく、金正日と金正恩という親子関係からの思いの違いということだ。子金正恩の親への反抗心ということであるように思える。正恩は正日を親として尊敬している。だが、その遣り方に関しては、必ずしも意見を同じくしていたのではないかということだ。存命中は、そういう風には言わなかったが、海外経験のある正恩としては、反発する気持ちもあったのではないかと思われる。

 普通この十代から二十代の時期、男は男親の遣り方を否定することから、全てが始まる。勿論、誰もがそうであるとはいわないが、その確率は高い。私の場合もそうであった。今は、亡父を尊敬し、あの頃の亡父の立場や遣り方も理解でき受け入れることも、いやそれどころか自分が間違っており、亡父が正しかったとさえ思えるようになった。だが、十代、二十代の頃は、一番身近なライバルとして馬鹿げてはいるが1から10まで否定してしまう傾向がある。特に、海外経験などをしてくると、その傾向が顕著であるように、自分の経験を踏まえ感じる。

 金正恩も、正にそのような心境にあるのではないか。それだけではない。彼の場合は、命懸けである。私のような俗人ではなく、一つ目の前の選択肢を誤ってしまえば、途端に命を落としかねない綱渡り的な状況に身を置いているのだ。笑いごとではなく真剣だ。少々、話が逸れてしまったが、そういう状況に彼は身を置いている。ここで、話を本題に戻す。

 金正恩は、海外で見聞を広げ教育を受けている。自由主義国家に身を置き、資本主義社会も、世界のことも彼自身の目と耳で見聞した経験がある。当然、北朝鮮という国が、世界で特異な国であることも、彼自身が一番理解しているはずだ。そのような、経験をした人間が、あの国の元首となったのだ。変革が起こって当たり前。だが、新しい動きへの反発は大きいはず。その反発を静かに回避しながら、現実のものにしていくことが、彼にとっての試練であり役目であるように感じる。その第一弾が、今回のリ・ヨンホの解任劇であったように私は感じている。当初、叔父チャン・ソンテク一派により為された権力闘争と思っていたが、自分の側近中の側近、軍部へのパイプ役であったリ・ヨンホを解任し、死に追いやったのは金正恩自身であったように思えてきた。何故なら、考えても、リ・ヨンホのような人間が、海外で見聞経験のある金正恩と思想信条を共有できるとは思えないからだ。リ・ヨンホは、金正恩の父親故金正日によって側近として側に着けられ親しくしていた。だが、どんなに親しくしていたとしても、心の根っこの部分では相容れないところがあったのではないか。だが、リ・ヨンホからしたら、「正恩同志の若気の至り」と一蹴していたのであろう。正恩の考えに耳を傾けるようなことはなかったはずだ。その結果、今回のような解任劇に発展したのではないかと思える。しかし、それは、衝動的な解任劇ではなく、金正恩としては、故金正日が亡くなった日以来、虎視眈々と時期を待っていたのではないか。何時かは、リ・ヨンホを遠ざけ、自分が海外で学んできたことを自由闊達に実現させたいと。そのためには、先軍政治を止め、比重を軍から党に移行しなければと思ったように思う。それは、ある意味尊敬する彼の祖父金日成への回帰でもあり、国民が望んでいることでもあるように正恩は思ったのではないか。

 現在の政権内部では、多分金正恩にとっては、中国とパイプが太く、北朝鮮外部の世界を間接的ではあるが知っているチャン・ソンテク叔父との方が、多分意見も考え方も合うのであろう。義理とはいえ叔父という立場であり、きっと親近感があるのであろう。ある意味、北朝鮮内部では、保守ではなく革新だ。外国経験のある金正恩も革新といっていいだろう。だとすれば、受け入れやすい立場であるに違いない。そのような状況下、諸々の環境が熟し、奇襲的にリ・ヨンホ解任劇が為されたのではないか。流血の事態になり、20名ほどの人間が命を落としたと聞いている。多分その犠牲者の中に、リ・ヨンホ自身がいたに違いない。後の反発、クーデターを懸念すれば、国の為に粛清して当然であろう。

 それでは、今回のリ・ヨンホ解任劇の理由は何であった? 答えは簡単だ。一番の理由は、リ・ヨンホが韓国砲撃事件の張本人であったということだ。世界的にも、故金正日的にも、金正恩の手柄づくりにあの砲撃事件が為された。だが、金正恩本人としては、非常に心外で望んでいなかったことであったのであろう。海外経験があり、自由主義国家で生活したことのある人間だ。そう考えて当然。彼からしたら、多分あの砲撃事件は、多くの罪なき人々の命を絶った不名誉な事件であったと感じていたのであろう。同時に、父親である故金正日が推し進めていた先軍政治自体に、大きな疑問を感じていた。自分が元首になった場合、亡父故金正日の推し進めた体制ではなく、尊敬する祖父である故金日成のような党主導の体制を推し進めたいと思ったのではないか。その証拠に、彼は風貌を祖父に似せるだけでなく、彼の立ち居振る舞いなども非常に故金日成を意識していることは見て取れる。チャン・ソンテクの後ろ盾になっている中国政府も、そんな金正恩を、故金正日よりも御し易いと思いだしているのではないか。そもそも、本来中国政府は、立場上、北朝鮮の世襲を快く思っていなかった。今までは、チャンスさえあれば、金正恩を排除して、チャン・ソンテクを押し上げ、傀儡政権をと模索していた。だが、チャン・ソンテクに国家をけん引する能力まではないと見ている中国は、ここにきて金正恩を上手くあやつり、傀儡政権を実現することも可能ではないかと思い出したのかもしれない。これは、まだ現段階ではかなり中国自体にとっても、将来的な掛けではあるであろうが。

金正恩にとっても、自らの命を守るためには、軍部リ・ヨンホに頼るよりも、チャン・ソンテクの背後にいる中国にすり寄った方が、色々な意味で得策であると判断したのであろう。将来的なことを思えば、自由主義国家で生活経験のある自分自身を担保にして、中国を揺さぶり父故金正日がしたように瀬戸際交渉にて立場を確立すればよいと判断したのであろう。少なくとも、その方が生き残りの確立は格段に高い。誰も、死にたいと思っている人間などいない。ましてや、あのような立場にいれば、既得権益を守ることは最重要課題であるはずだ。それには、守ることは、まず改革することと考えたのであろう。その第一段階が、今回のリ・ヨンホ解任劇であり、先軍からの脱却ということであったのであろう。自ら丸腰になることで、損して得取れ、利を得ようということなのだろう。

 実際、北朝鮮の経済状態の現実を金正恩が知らないわけがない。実状を知っていれば、自由主義国家で、資本主義に触れてきた経験のある彼からしたら、思想よりも実である経済発展をとるという考え方は、非常に自然である。その第一歩が、今回のリ・ヨンホ解任劇であり、自らの元帥就任であったのであろう。そして、側に妻を常に置くことで、内外に向かって改革の先頭にたっていることを表そうとしているのではないか。今までとは違う、自由主義諸国と同じように、国民皆に自由があるのだ、ということを間接的にアピールしようとしているようにさえ思える。そのことは、ここのところの北朝鮮での数々の出来事にも表れているように思う。

これは、私の個人的な観測である。だが、裏を返せば、このようになってくれればとも思ってのことであることを理解して頂きたい。私は、歴史上の史実も、親子愛や母性愛、家族愛という愛を排除して考えると真実を見失い、殺伐としたものにしかならず、ある意味本質が見えてこないように普段から思っている。各種愛という化学反応があり、歴史は積み重ねられていくと信じている。何故なら、歴史は、人間によって積み重ねられているからだ。故に、このように歴史を自分なりに、裏返して見るように普段から心掛けている。そのような見方で、北朝鮮も見てみると、リ・ヨンホ解任劇、そして、その直後の元帥就任と、今までの常識とは違った見方ができるように思えてきたので、ここに記すこととした。
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by seizaikai_club | 2012-07-22 16:56 | 朝鮮半島情勢

加害児童三人に「いじめ」を認めさせることの方が<大津いじめ自殺事件>

加害者児童三人に「いじめ」を認めさせることの方が<大津いじめ自殺事件>
2012年7月16日

 大津の中二児童いじめ自殺問題で、民事訴訟に於いて、加害児童三人が、それぞれが法廷でいじめを否認し、遊びであったと主張したとの報道があった。損害賠償請求が起これば、当然被告弁護人はいじめの有無を論点に法廷闘争を行う。だが、負けないために当然のことながら、加害児童たちにいじめの否認を迫る、これが彼ら加害児童の人生、将来にとって、どれだけ大きなことか。どれだけ彼ら加害児童の人生を狂わせることか、そのことを関係者である大人たちは認識する必要がある。確かに多額の損害賠償を請求されれば、それを避けるためにいじめの事実じたいを否認することになる。実際に否認した。だが、それは彼らが犯した罪に対して、嘘を強い、大人の都合で、事実を歪曲することになる。そのことが、彼ら三人に与える不幸であることを、彼らの親も、弁護人も理解するべきである。そもそも関係教師たちが、彼らを止められなかったから、こういう事態に発展してしまったのだが、被害者児童は自ら命を絶ち、今度は、加害児童たちもが、彼らに事実を隠ぺいさせ、嘘をつかすことになる。どれだけ、子供たちを踏みにじることになるか? そのことに思いを深く巡らせながら、裁判も、捜査も、日本中の親や大人、教師、政治家、教育関係者の全てが、真摯に受け止め、この事件を今後見守るべきである。彼ら子供たちの人生は、もう元には戻らない。救いは、このいじめが起こった学校の残された子供たちだ。彼らは、自らの判断で、勇気を振り絞り、中には自ら記名してアンケートに答え、声を上げている。彼らの行為を無駄にしないように、今後は大人たちが、もっとももっと真剣に子供たちに対峙し、解決に向けてこの国の大人たち全てで取り組まなければ、この国に未来はない。
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by seizaikai_club | 2012-07-16 16:39 | 教育

大津いじめ問題にみる教育現場荒廃状況に憤り

大津いじめ問題に見る教育現場荒廃状況に憤り
2012年7月15日

 この問題には、本当に色々な意味で憤りを覚える。いじめの問題は、古今東西子供たちの成長期には多かれ少なかれ必ず生じる問題だ。だが、いじめの形が、間違いなく昔と今では大きく変わった。それは、いじめの形もだが、教師や親を含め大人たちの環境、もちろん子供たちの置かれた環境もである。そして、もっとも大きな違いは、教師たちや学校の対応と意識、資質の問題であると、今回の事件は強く私たちに感じさせてくれた。

 そもそも、いじめとは、あってはならないことである。だが、必ずいじめという問題が学校という環境では起こる。学校だけではない、日本の場合は仕事場を含めあらゆる組織で起こる。それは、日本人のある意味陰湿な集団性に起因する気もする。だが、ここで、その問題を中心に取り上げることは差し控える。

 今回の問題で最も憤りを感じる部分は、あれだけのいじめの事実があり、あれだけの同窓生がそのいじめを感じていて、アンケート調査では記名までしてそのことを訴えようとした残された生徒たちの声さえも歪曲し隠ぺいしようとした学校、教師、教育委員会の体質だ。正直、彼らは聖職者としての資質ゼロだ。いや、人間としても失格だ。あれだけのいじめを受けていながら、担任は見て見ぬ振りをした。絶対に気付いていたはずだ。だが、面倒なことにならなければと、心の底で祈っていたはずに違いない。いじめを受けていた当事者が、勇気を振り絞って、自殺直前に担任に電話で訴えていたという。どれだけ、苦しい思いで勇気を振り絞り、先生に助けを求めたのであろうか。同級生にも、同じく担任にいじめの事実を伝えていた女性生徒がいたという。それでも担任教師は、見て見ぬ振りをした。言葉は悪いが、ある意味担任教師を含め、教師たちに自殺した被害者生徒は殺されたと言っても過言ではない。

 娘とこの件を話してみた。すると、パパの時代とはいじめの形が違うのだと強く一蹴された。彼女が通う私立校では、そういうことはないが公立校から転校してきた子の話という前置きの上で、今のいじめは集団で行われるから、皆明日は我が身で何も言えないというのだ。それでも、悪いことは悪いことで、誰かが勇気を出して阻止しなければ、仲間が辛い思いをしているのだからと言ったら、そうではない。わかっていない。と強く否定されてしまった。多分、私たちの時代とは、様相が一変しているのであろう。だが、一つだけ言えることは、昔は、教師に相談すれば、教師は必ず救いの手を差し伸べてくれた。だが、今の公立校では、そこのところが絶望的な現状である。これは、実際に公立校で教師をしている方から聞いた話だが、教師間自体コミュニケーションも希薄で、自分だけを守ろうという意識が強く、事なかれ主義で、できるだけ子供たちの問題も見て見ぬ振りでやり過ごすというのだ。公立校の教育現場には、絶望しかなく希望は全くないと、公立校の教師自身が言うのだ。私は、この言葉を聞いた時愕然とした。

 無垢の子供たちは、まだ学校という小さな社会のみで生活しており、他人とのコミュニケーション能力も不自由分である。そんな状況下で、いじめに合い、一人思い悩み、いじめに苦しんでいる時、一番身近にいる彼らを指導すべき教師たちが見て見ぬ振りをしてしまうということは、彼ら子供たちにとって、どれだけ不幸なことか。被害者の子供たちだけではない、加害者の子供にとっても、道を踏み誤らないチャンスを得ることができないはずだ。

 教師とは、本来勉学を教授するだけではなく、子供たちが人間社会で生きていくための色々なことを導かなければならない身近な大人であるはず。にもかかわらず、教師たちは、知識を押し込むだけ。一番大切な人として生きるということを、子供たちは教えてもらえないというのは、これ以上不幸なことはない。そもそも、中学高校の一番多感な時期、反抗期もあれば、色々なことが、子供たちには起こる。だが、それら諸々の経験より、生きていく術を彼らは学んでいくはずだ。見ていると、今の教師たちは、「教育」ということを誤解している。「教育とは、本来子供たちに多くの選択肢を与えること」であるはずだ。だが、教師たちは、選択肢ではなく、自分たちの思想や知識や悪習ばかりを押し付けているようにしか見えない。今回の事件でも、教師や学校は、子供たちに隠ぺいを強いた。口外しないように強いた。本当は気付いていたいじめを気付いていなかったように嘘をついた。これら全てのことが、子供たちにとっては学びになってしまう。嘘をつくこと、隠ぺいすること、皆彼らの人生での学びになってしまう。その影響の大きさには、憤りと絶望しか感じ得ない。彼らは、これからの人生で、何かあれば隠ぺいすればよいのだ、嘘をつけばよいのだと学んでしまう。これは悲しむべきことだ。

 そもそも教師は聖職であったはずだ。学校は聖域であったはずだ。地域からも、親たちからも、一目置かれていた存在だ。だからこそ、教師も学校も、本気で子供たちを指導できた。その根本にも問題が生じているように感じる。モンスターペアレンツなどという言葉が持て囃されること自体異常だ。話が逸れるが、教師や学校の責任だけではないことを、全ての親も大人たちも理解しなければならない。長年、公立校でも私立校でもPTA活動を経験してきて、一つだけ言えることは、出過ぎて間違った感覚で大きな声を上げる親を止めることができるのは教師ではない。これができるのは、同じ立場にある我々親なのだ。同じ立場にある親ならばそんな無謀な親をも静止し説得することもできる。このことからもわかるように、育児、教育とは、学校任せでも、教師任せでもなく、家庭も、親も、社会も一体となって初めて為せることなのである。

 私の子供たちが通っていた公立の小学校は、他の公立校に比較すると非常に良い教育環境が保たれていた。そのことは、教師と子供たち、教師と教師の関係を見ていると一目瞭然である。一番の判断材料は、職員室の様子だ。職員室が静かで暗い学校は、何かしら問題を抱えていると私は思っている。

 どんな学校でも、多かれ少なかれ問題を抱えている。だが、それらの問題を正直に対峙し、解決しようする努力があるか否かは、校長先生の教師としての資質と人間性によるところが大きいように感じる。子供たちの小学校の校長先生と私は、色々な理由で非常に親しくしていた。勿論PTAとしてであり、個人的な利害はまったくない。一言でいえば、親としても、その校長先生が大好きであった。いつも目線が子供たちと同じ高さにあり、校長室に閉じこもるのではなく、常に学校内におり子供たちと接していた。何と全校生徒の顔と名前を全員覚えておられた。これには私も驚かされた。何気ないことだが、この姿勢が非常に大切なのだ。廊下ですれ違いながらも、校長先生は、すれ違う子供に声を必ず掛ける。勿論、子供に名前を呼びかけながら。自ずと、子供たちも校長先生に子供たちも心の扉を開く。この校長先生の校長室には、昼子供たちが自由に頻繁に出入りしていた。風通しが良いのだ。子供たちも何でも校長先生に話す。校長先生も子供たちに耳を傾ける。すると自然に先生たちの風通しもよくなる。残念なことに、この先生は、校長先生を私の娘の卒業と同時に定年で退官されたが、その直後胃癌で亡くなられた。あの穏やかお姿とは裏腹に多くのストレスを抱えておられたかと想像すると、胸が詰まる。娘は、当時私立の中学校に入学し寮にいたので、葬式は参加できなかった。私が代わりに娘の分まで手を合わせてきたが、門凄い数の参列者が故人を惜しんで参列していた。勿論たくさんの生徒たちも参列していた。話は逸れるが、この先生との縁の始まりは、PTAで新潟出身のこの先生と餅つき大会を催したことであった。深く暖かい人としての絆を感じられた。多分、生徒たちも同じような感覚を、この先生に感じていたと今でも私は思っている。因みに、道徳の先生であり、公立校の道徳の教科書も執筆されている先生であった。

 こういうことが、教育の本来の姿ではないかと私は思っている。特別なことでも、頭でっかちな知識の押し込みでもなく、人としての絆、関わり方を学ぶ場こそが学校であり、それを導く身近な大人が教師でないかと。
この校長先生が、よく言っていらした。悩みが二つあると。できることならば、子供たちが六年間小学校で過ごす間、男先生の担任、女先生の担任、どちらも皆に経験してもらいたいと。だが、今の教員比率では、女性の方が大きく、また信任男性教師が生まれても、直ぐに男性教師は辞めて転職してしまうと。色々な理由を伺ったが、ここでは割愛することとする。
二つ目の悩みは、校長先生という職務は、ある意味外交官のようで、学校にいる時間が制約されてしまうということであった。教師は東京都の職員、用務員さんなど学校運営や経営にかかわる人々は区の職員として、区に帰属している。その結果、校長先生は板挟みで煩雑な作業に追われ、子供たちとの時間を満足に取れないと悩んでおられた。その言葉が非常に印象的で、私の脳裏に残っている。

 それにしても、今回の大津のいじめ問題は、あまりにも度が過ぎており、これはもういじめの範疇を超え色々な意味で刑事事件としか言いようがない。そもそも、警察をはじめ司法が教育にかかわること自体異常事態である。だが、今回の事件が、いじめに関し氷山の一角であり、大津だけでなく全国で同じような深刻ないじめ問題が生じているのであれば、政府は何よりこの問題、即ち公立校の教育現場荒廃改善を最優先にするべきであると強く思う。新たなる犠牲者を生まないためにも。きっと、こんな問題が取り沙汰されている間にも、日本のどこかで多くの被害児童がいじめに苦しんでいるに違いない。根本から教育現場を改善しなければ、この国に未来はない。何故なら、子供たちは、この国の未来を支える宝であるから。
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by seizaikai_club | 2012-07-15 14:16 | 教育

公立校に於けるいじめの問題

公立校に於けるいじめの問題
2012年7月5日

ここ数日、「大津の中2自殺:生前に自殺練習強要」事件に賛否両論寄せられている。無記名も可能であるにも関わらず多くの生徒たちが記名アンケートで、いじめがあったという実態を吐露しているにもかかわらず、教育委員会や教師たちは、その実態を「知らなかった」と隠蔽しようとしている。責任逃れを決め込むつもりであろう。だが、これは氷山の一角。公立校のいじめの実態である。絶対に等閑にしてはならない問題だ。

そんな事件が伝えられている中一昨日、公立中学にこの春から通う私の甥っ子も、番長と呼ばれる子供とその取り巻き複数の生徒によって、袋叩きにされて帰宅した。問題はそれだけではない。教師から、私の妹、つまり彼の母親に電話があり、悪いのは袋叩きにした番長や子供たちではなく、甥っ子が汚い言葉で罵倒したことがキッカケだと言い、一方的に怪我をさせられた甥っ子の方が悪者にされてしまったのだ。妹によると、その番長と呼ばれる子供は親子共、非常に素行が悪く、教師たちも触らぬ神に祟りなしという感じで接しているというのだ。本来教師としてあるまじき行為だ。百歩譲って、喧嘩両成敗が常套だ。

何故このことを書くことにしたかというと、私にも責任の一端があると強く感じたからだ。実は、中学に入ってから、甥っ子は登校拒否をするようになり、妹が少々困っていた。甥っ子に会って話してみると、特別以前と変わった様子もなく、プロ野球を目差してシニアリーグで頑張っている。その為、野球の練習で疲れてしまうから透谷拒否だということであった。以前にも、何度かこの甥っ子のことは書いたことがあるが、小学校で既に180センチ近い身長があり、横縦大人の様に大きい。大きいだけでなく、運動神経も悪くなく、リトルリーグではキャッチャーをしていたのだが、最後のシーズンは、ホームラン本数最多で表彰されたりもしていた。身体が大きいことも才能の内と思い、彼の夢が叶うように応援していた。実は、一昨日の喧嘩でも、野球ができなくなることを思い、彼は手を出さずにやられるままに我慢したのだ。実は7月2日が彼の誕生日で、誕生日カードに、虐めの実態を薄々知っていた私は、「嫌なことは、ハッキリ嫌といえばよい。自分が間違っていなならば、正々堂々と対峙すればよい」と書いてやっていたのだ。多分、甥っ子は、その言葉を実践したに違いない。「嫌だといったのであろう」正直に言えば、まともにケンカすれば、甥っ子の方が強いはずである。力も勝っているし、素早さも勝っている、同時に、万が一に備えて護身の術も多少教えてあった。だが、彼は我慢して手を出さなかった。それは、野球を止めさせられたくなかったからだ。素行不良であれば、チームから辞めさせられてしまうし、高校入学の為の野球推薦もしてもらえなくなってしまう。どれだけ悔しい思いをしたであろうか。

問題は、教師の対応である。今回の教師の采配は、私から見たら非常に理不尽だ。教育の現場で起こるべきことではない。確かに、甥っ子が相手を罵倒した言葉は汚かったのであろう。だが、好き好んでやられるために罵倒などしない。因縁を付けられたから、彼は彼なりに言葉で反撃し、「嫌だ」という意志表示をしたのであろう。ところが、暴力を振るわれるに至った。ところが、教師は、公平に喧嘩両成敗の采配を振るうのではなく、暴力を振るわれた甥っ子だけを悪く、暴力をふるった番長グループに一方的に軍配を挙げてしまったのだ。これは理不尽極まりない。甥っ子の成長期の経験としては、絶対にあってはならない経験だ。社会に正義はないと誤解してしまいかねない。そこまで思慮深く采配を振るうのが教師の務めである。

私の子供たちが通う私立校には、多くの公立校教師の子弟が通っている。そのような複数の公立校教師の親御さんから、公立校の実態を聞かされる。彼らは、公立校の教育現場には絶望しかないという。故に、自分の子供たちは、私立校に通わせていると言われる。教師同士の確執やら、日教組やら、枷が多すぎて、純粋に教育ができない状況にあるという。学校運営と教員との二重行政など、問題は山積だ。国歌斉唱や国旗掲揚と自分達の主張ばかりする公立校教師が多いが、子供たちの教育環境には無頓着だ。満足に子供たちを育むことすらできていないという。今回の事件で、その実態は露呈した。ある意味、教育現場の実態を改善する問題は、政治の最優先課題であるように強く思う。皆さんは如何お考えでしょうか? 
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by seizaikai_club | 2012-07-05 09:17 | 教育

「政治をもっと身近に」をスローガンにして、日本人にもっと「愛国心」を喚起すべく語る。
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政財界倶楽部代表  恩田将葉
 「政治をもっと身近に」をスローガンに、一人でも多くの日本国民が政治に関心を持ち、参加してくれるよう、執筆活動、出版活動等を通じ「愛国心」啓蒙活動をしている。国際化が進む世界の中で、日本の政治も若者の手で変革しなければならない!!

 政財界倶楽部代表恩田将葉は、 アメリカ合衆国カリフォルニア州で約9年間生活。その間、サン・フランシスコ州立大学(San Francisco State University, SFSU)国際関係学部で国際関係学と政治を学び、朝鮮半島問題専攻で卒業。その後、暫くアメリカで現地法人の会社(People Intertrade, Inc.)を経営した後帰国。帰国後は、記者と編集者を経て出版社である株式会社ぴいぷる社と株式会社政財界出版社、そして、夕刊紙「内外タイムス」を発行する株式会社内外タイムス社の社長に就任。活字業界一筋に生きてきた。現在は、経営から一歩引き、国際情勢ならびに政治を中心に、ジャンルを問わず執筆活動を継続中。プロの文士として、随筆、小説、脚本等あらゆる分野で執筆活動を展開し、文章を綴ることを天職としている。そのかたわら、日本に、嘗てのごとく「愛国人」を増やすべく、「政治をもっと身近に」をスローガンに、自ら「政財界倶楽部」を運営している。

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