政財界倶楽部         (恩田将葉見聞録)

INFORMATION
New Album
2006年1月18日発売
『リボン』
[初回盤]
[初回盤]
価格:3,150円(税込)
SNCC-86913
(CD+DVD/2枚組)
この商品を購入する
[通常盤]
[通常盤]
価格:2,800円(税込)
SNCC-86914 
この商品を購入する
LINK
ゆずOFFICIAL SITE
ARTIST DATA
ツアーブログ 総動員DEいきまっしょい!!
excite MUSIC

<   2011年 10月 ( 7 )   > この月の画像一覧

慣れないスローライフ

慣れないスローライフ
2011年10月24日

 脳梗塞を患って以来、柄にもなくスローライフを実践している。ご存知のように、血圧が上がることを極力抑えなければならない。生まれて初めて血圧降下剤を服用している。今までは、血圧が高いのでと言われても、この薬飲みだせば死ぬまで服用しなければならないと、食事療法などでごまかしていた。二年前の膵炎による多臓器不全の際には、自然に血圧が下がり喜んでいた。ところが、忘れていたころに、今回の発病。気付けばやはり昔のように、上が200前後、下が110以上という驚異的な血圧を記録していた。死にたくなけりゃ、と医者に脅かされ遂に血圧降下剤を服用するようになった。調子は悪くない。だが、気候の変化や気圧に血圧は左右されるようで、季節の変わり目の今は、何だか知らないが不安定だ。

 そもそもせっかちな性質の私にとっては、このスローライフというヤツがえらく厄介だ。脳に傷があるとかで、再発防止と癲癇発作予防のため、運動も極力控えるようにと言われ、全ての運動を我慢している。食欲だけは以前同様旺盛で、散歩も出来ない状態なので脳以外の身体が悲鳴をあげている。人間の身体というのは、こういう風にしてバランスを崩していくのだなと実感している。どこかを庇い過ぎれば、どこかに支障がでる。結局はバランスが重要なのだ。死期は運命だ。死ぬ時は死ぬ、そんなことを思いながら、少しだけ行動範囲を広げている。筋肉がつるようになってしまったので、ほんの少しだけバーベルを上げてみようかなと思っている昨今である。

 車の運転も、渋滞などで血圧が上がると危険なのでと止められた。だが、歩くのダメ、車もダメ、何もダメ、かにもダメと言えば、言うのは簡単だが生活がなりたたなくなる。子供たち二人を抱えた我が身には、無理という相談だ。結局、隠れて車を運転し、仕事も少しずつ始めている。よっぽど貯金でもあるのなら別だが、人間働かずに生きてはいけない。お医者様は、私の身体を大切に思ってくれてのアドバイスをしてくれているのであろうが、そこが何ともジレンマだ。

 せっかちな私は、そもそももともとは競歩のように速足であった。短期でせっかちで、脳の為にはまったくよろしくない。私は、外見は実年齢より随分と若く元気であると自負してきた。だが、蓋を開けてみると、脳の中身、脳年齢は実年齢よりも随分と老化しているとのことだ。担当医に開口一番忠告された。「このままいけば還暦は迎えられない。脳に負担を掛け過ぎ。無理をし過ぎだ。長生きしたければ、スローライフを心掛けるように。次に起これば障害は重く、命もないだろう」そう宣告されてしまった。少々、自分でも驚いた。まさか、誰よりも若いと思っていたので、言葉が出なかった。まあ、思い起こしてみれば、二人の子供を抱えて、仕事や家事全般や、あまりにも忙しく生きてき過ぎた。だが、苦でもなかった。苦でもないと言えば嘘になる。だが、可愛い子供たちのことを考えれば、屁でもなかった。

 偉そうに、人生の第一ステージ、第二ステージを終え、子供たちの巣立ちの時が目前に迫り、人生最後のステージ、第三ステージに突入だなどと言っていた矢先の出来事だ。正直、自分自身が度肝を抜かれた。「嘘、何で?」という正直な心の声だ。これから第三の人生と思っていた矢先のことだ。人生とは、本当に一寸先は闇だ。何が起こるかわからない。二年前の大病で、神様は喝を入れてくれたのだと思っていたが、まだ教訓が必要であったようだ。だが、それでも生かしてくれた。死を迎えることもなく、障害を負うこともなく、多少言葉を失っただけで、十分リハビリで立ち直るチャンスを与えてくれた。これは、奇跡だ。感謝しなければ。まだ、死ななくていいというお告げだろう。ただ、今までとは違い、ゆっくりと地に足を付けてということなのだろう。

 最近よく思う。あまり後先考えても、死ぬときは死ぬ。それなら今この時を一生懸命生きようと。だが、身体が付いてこない。実際には付いてこないのではなく、身体をいたわらないといけない。困ったことだ。中身の精神は活き活きしているのに、身体は中古のおんぼろ状態になりつつある。参ったものだ。それでも、与えられた自分の環境の中で、精一杯頑張るしか方法はない。無理せず、騙し騙し健康に留意しながら一歩を進めなければならない。まだまだくたばるわけにはいかないからな。思えば、結局のところ、私の人生、子供たちによって意味を与えられたようなものだ。そんなことを思う、今日この頃だ。その子供たちも、巣立ちの時に向かって秒読みが始まった。スローライフといいながら、まだ秒読みだなんていっている。ダメだな俺は。(笑)
[PR]
by seizaikai_club | 2011-10-24 12:57 | 今日の独り言

脳梗塞顛末記 続々編

脳梗塞顛末記 続々編
2011年10月23日

 どうしても、直近の物事を忘れてしまう傾向は、脳梗塞後にある症状の一つかもしれない。以前だと、書くことが頭の中で構成することができていたのだが、以前同様構成するのだが、それを直ぐ忘れてしまう傾向がある。それが、ある意味、私の仕事にとっては、障害となっているかもしれない。気になっているところは、日々つける日記だ。日記の記載が、少々大変になった。その日に何があったかを忘れがちだ。

 他にも、脳梗塞以前と以後では、いくつかの違いが出ている。例えば、聴力だ。ここ数年、いや継続的な頭痛を抱えだしてから、耳が非常に遠くなっていた。テレビをつけていると、家族から非難轟轟であった。ボリュームをこれでもかというほど大きくしていた。祖母でさえ、音が大きすぎと文句を言っていたほどだ。耳が非常に聞こえ難かった。それが、脳梗塞後、普通に戻った。不思議だ。ボリューム25程度で聞いていたのが、今では普通に12から15程度で聞いている。以前だと考えられなかった、ボリューム2~5程度でも聞くことができる。不思議この上ない。

 担当医に言われ思い起こしてみると、1年以上まえから兆候がでていたはずだという。確かに、思い返してみると兆候があった。まず、兎に角継続的に左後頭部の変が非常に重く酷い頭痛が続いていた。ほとんどロキソニンを欠かすことなく常用していた。それと、3時間以上眠れなかった。寝たくとも寝れない。お蔭で、時間は有効に使えたが、熟睡ができなかった。鈍痛に頭を押し潰されそうになっていた。寝返りもうてず、ある方向に寝返りすると眩暈もしていた。車をバックで駐車すると、必ず同じ方向に車が曲がった。洗い物をしていて、コップ等を落とすことが、ここ2~3ヶ月は非常に多かった。肩こりも酷く、どうやっても解消することができなかった。上気したような症状が、今から考えると兆候であったのだろう。間違いなく、異変が起こっていたのだ。ただ、自分では、それを異変とは気付かずにいる。そんなものだ。

 だが不思議なのは、何か予感を感じていたのかもしれない。7月14日に息子がボランティアでネパールに旅立ったのだが、その前夜、息子と娘を目の前にして、万が一のことがあったらと彼らに色々な話しをして聞かせた。お蔭で、彼らは心の準備ができており、実際息子は、言われていた通りに、入院直後から迷うことなく色々と動いてくれた。これは、非常にありがたかった。多分、本能的に、自分の身体に異変が起きていることを感じ取っていたのかもしれない。不思議な話しだ。また思い出したことがあれば、書き留めることとする。

 話は変わるが、私の場合数字が全滅でひらがなもほとんど失った。だが、幸い数字とひらがなだったので、比較的早くリハビリができた。当初は、本のページを開いたら、非常に不思議な情景が見えていた。あれは面白い経験だ。不思議の国のアリス状態だ。見える言葉と見えない言葉が躍っていた。1ページ読むのに、1時間以上掛かった。グルグルとページが回っていた。私の場合は、漢字は多く残っていたので全滅した数字も漢数字に置き換えリハビリした。不思議なのは、多分記憶されている場所がそれぞれ違うのだろう、アメリカのSocial Security Numberは、不思議なことに潜在的に記憶されていたのか、うわ言のように英語で言っていた。同じ数字だが、残っていた。不思議だ。人間の身体とは、不思議なものだ。今やっていることは、以前のようにスムーズに読書できるよう、全て読書は音読にしている。これは、かなり言語障害のリハビリに大きな効果があるようだ。このお蔭で、ほぼ初対面の人には、障害を気付かれることはない。周囲の人たちにも、まったくわからないと言われる。数字に関しては、紙に書けば直ぐに計算もできるようになったのだが、暗算は全滅であった。病院では、一日何回も暗算をやってもらった。私自身では、ipadを有効利用して早いペースで数字のリハビリも為すことができた。
[PR]
by seizaikai_club | 2011-10-23 12:59 | 今日の独り言

脳梗塞顛末記 続編

脳梗塞顛末記 続編
2011年10月23日

 第二弾では、徐々にわかってきたことを記しておくこととする。部分的に、倒れた当日のことが記憶から消えていたが、当日会っていた人々と再会することで、当日の様子が解ってきた。自分の中でハッキリ覚えているのは、自宅を出発する直前、娘と泊りにきてくれていたお友達へ、「いってきます」と声を掛け出掛けたことだけだ。

 その後、都内で打ち合わせをした。二つ目の打ち合わせまでは記憶があるのだが、言葉がでなくなった瞬間までは覚えている。だが、その後の記憶はない。ただ、少しだけ病院に向かう車の運転中の記憶が残っている。それは、困ったことの記憶だ。

 まるでプッチっという音を立てて、まるで頭の中が切れたかのように、突然言葉がまったくでなくなった。頭の中では考えているのだが言葉がでない。後で周囲の人々に聞いたところ、言葉がでなくなっただけではなく、まったく表情がなくなったという。同時に、打ち合わせの最中であったが、冗談かと思うような不思議な動きをしたということだ。彼ら曰く、座っていた椅子の上から飛び上がるような、尋常ではない動きをしたらしい。その直後から、まったく動かなくなったそうだ。心配した、周囲の人々は、カウチで休むように促したそうだ。そうこうしている内に、勿論私自身の記憶はないのだが、小一時間すると突然飛び起き、皆が止める間もなくバックパックを肩にかけ、制止する間もなく飛び出していった。それからは、迷走の時間だ。いや迷走ではない。今から思い起こしてみると、過去に打ち合わせ中、二度脳梗塞を起こした相手を救急車で病院にまで同伴した経験があったが、二人とも病院がどこも満室で盥回しになっている間に手遅れになった。勿論、亡くなりはしなかったが、大きな後遺症が残った。その記憶が、普段から私の中に潜在的に残っていたのであろう。何としても、これは自力で以前に命を救われた防衛医大まで向かわなければと思ったようだ。

 本当なら、自殺行為とも思われる自力での運転で、病院まで向かった。正直に言えば、多分脳内出血量が少しずつ増えてきたのであろう。当初動いていた右半身に痺れがではじめ、段々と動かなくなってきた。それだけでなく、思考能力が著しく低下していた。普段当たり前で運転していた自分の車の操作が上手くできない。ハザードさえ止められない。ナビも操作できない。ただ、これはもう無意識というか潜在的記憶として、病院までの道程は覚えていたのであろう。アクセルを踏んで、赤信号で止まる。それだけで、病院まで辿り着いた。一生懸命言葉を出そうと一人格闘した。だが、言葉はでなかった。段々に右半身だけでなく、左半身にも痺れを感じてきた。そんな矢先、病院の救急救命センターよう入口前に車を乗り捨て、受付に向かった。まったく言葉がでなかった。後から聞けば、一目瞭然で様子がおかしく、受付の警備の人は直ぐにお医者を呼んでくれた。医者の姿を目の当たりしたら、安心したのか私は崩れ落ちた。同時に、「脳内出血か脳梗塞だ」という声がどこか遠い記憶の中で響いた。段々に、自分の周りで木霊している声が、遠くなってバリアに覆われたようになった。朦朧とした意識の中、ストレッチャーに乗せられCTやMRなどで多分検査されていたのであろう。その頃には、もうほぼ意識が薄れる寸前であった。その後、ハッキリと意識が戻ったのは、病院の廊下をストレッチャーにのせられあちらへこちらへと進んでいた時だ。気付けば、既に窓の外は真っ暗で静かな病室に到着した。

 目を覚まし意識が戻ってくると、看護婦さんたちがストレッチャーからベッドへ乗せ換えてくれていた。私は、必死に名前と住所などを言葉にしようとしていた。だが、言葉はまったくでない。辛うじて子供たちの名前だけ。自分の名前も苗字も言えない。生年月日も思い出せない。住所の数字も電話番号もでない。子供たち二人の名前だけを、何度も何度も口遊んでいた、と後に看護婦さんから言われた。

 その頃になると、酷い頭痛と眩暈、吐き気 が恐ろしい勢いで襲ってきていた。自分の身体がどうにもできず、もんどりうっていたようだ。単純な介護ベッドの操作さえできない。頭を上げたいのだが、自力でそんな簡単なこともできない。頭の違和感で、身体をクネクネとくねらせ、もだえまくっていた。気付くと、胴と手足が拘束きで完全に拘束されていた。一瞬、「精神科に入れられてしまったのか」と脳裏を霞めた。どこに自分がおり、自分が誰かも言えないのだ。それは精神科にいれられてもおかしくない。そんなことを思った。だが直ぐに、その不安は打ち消された。看護婦さんが、「ここは脳神経外科ですよ。名前や住所、わかりますか?」という声が響いてきた。「動いたらいけないので、身体拘束させてもらっていますよ」と優しい声が聞こえてきた。だが、どうにも頭に違和感があり、じっとしていられない。暫くすると、そんな私を察したかのように、点滴の中に多分寝る薬を投与してくれたのだろう。静かに眠りの世界に落ちて行った。
[PR]
by seizaikai_club | 2011-10-23 07:56 | 今日の独り言

相変わらず外交下手の日本

相変わらず外交下手の日本
2011年10月23日

 日本は、昔から外交下手だ。ハッタリがきかない。言葉が悪いがバカ正直だ。強かに、良い結果を得るために立ち回るということができない。真っ直ぐに直球を投げる。だが、国際社会では、以心伝心とか、良い人と思われるだけでは、何も得ることはできない。結果しかみられない。

 例えば、PTT関税自由貿易の問題。アメリカが主導権を持って環太平洋地域で関税自由貿易化を図っている。国内外で異論が多々生じている。確かに問題点は多い。だが、既に、多くの国がこの流れで動き出している。韓国などは、問題点を感じながらも、条件を提示して賛同する意向を示し、アメリカに恩を売る形で合意した。勿論、韓国国内にも根強い反対派もいる。だが、李明博大統領は、さすがにビジネス・マンだ。交渉事にあたって、交渉しなければならなければならない運命にあるのならば、無理やりやらされるという形にならず、逆に主導権を取り交換条件を提示して、アメリカに恩を売る形での合意をした。結果、韓国国内に対しては、影響を出来る限り少なくし、遣らされるのではなく、自ら遣るという姿勢で臨んだ。これこそが、リーダーだ。

 日本はといえば、能書きばかりいって、結局圧力をかけられ、嫌々やらされるという方向に向かいつつある。どうせ、やらなければ国益に反する国際関係があるのならば、御託を並べず主導権をとるべく、韓国のように条件をつけながら恩を売る交渉術が必要。どうにも、日本はこの辺の外交交渉術が、非常に幼稚だ。いつまでたっても、成熟しない。というか、国際社会では、いつまでたっても幼稚極まりない。国民性もあるのだろうが、良い結果を引き出すためには、多少のハッタリも必要だ。良い子になる必要はない。一つの原因は、総理大臣や内閣がコロコロ変わるという、日本の特徴がある。韓国の強みは、アメリカの大統領同様4年の任期の間は、多少の問題があっても完遂する。裏を返せば、それだけ腹の括り方も、責任感も他国のリーダーに比較して日本の首相は低い。この問題から、まず改革しなければ、何も変わらないのかもしれない。日本人全体が、こういう基本的なことを、よく考え直す時が既に来ているように私は思う。
[PR]
by seizaikai_club | 2011-10-23 06:54 | 政治

大阪都構想と市長選に思うこと

大阪都構想と市長選に思うこと
2011年10月21日

 大阪市民でない第三者として思うことを、正直に記すこととする。そのことをご了承ください。当事者でないので、無責任な内容にならないように心掛けます。

 まず最初に、正直に言えば、昔から大阪府と大阪市という体制自体、第三者からすれば非常に解りにくい。何十年も大阪に出入りしていても、未だに完全には理解できていない。全ての根源は、そこにあるのではと第三者として無責任に思ってしまう。そういうことからすると、橋下知事の大阪都構想というのは、ある意味我々部外者にとっては非常に解り易い。

 例えば、テレビ番組などでも取り上げられていたが、道路の清掃一つをとっても、府道と市道で交わる交差点では市と府が縄張り争いのような事をしていると報道されていた。正直に、不思議に思った。施設等も、私立と府立の二種類があり、他県からの訪問者からしたら、非常に解りにくいし無駄にしか感じられない。多分、そんな不合理を、橋下知事は改革しようとしているのだろう。当事者の大阪市民や府民からしたらば、今まで継続されていた体制を、わざわざ改革して、危険を犯したくないという守りに入っているのだろう。だが、思う。改革というのは、誰かが勇気をもって、人々を導いていかなければ、いつまでたってもできないものだと。今、大阪は、そんなチャンスを得ているのではないか、そんなことを無責任に思う。

 本来関西圏というのは、京都、大阪、神戸という大きな都市が並列していて、大きな力を持っている地域であるはず。それなのに、その良さを活かさず、どうも不合理なことを続けているように、昔から感じていた。関東圏は、関西とは違い東京が首都として大きな位置をしめている。だが、万が一天災などが起これば、一蓮托生一気に潰れてしまう。そうやって考えると、関西圏は非常に良い形ができるのではないかと思う。折角のそんな天運を、わざわざ分裂するような形で逃してしまうことは非常に残念だ。上手く、良い結果がでればと思う。今後の進展を見守りたい。
[PR]
by seizaikai_club | 2011-10-21 22:56 | 政治

故スティーブ・ジョブズの想い出

故スティーブ・ジョブズの想い出
2011年10月10日

 先日アップル・コンピューターの創設者スティーブ・ジョブズ氏が急逝した。近年体調が悪いことは、その姿を見れば誰の目にも明らかであった。予想はしていたが、かなり衝撃的な出来事だ。

 年齢的にも近く、私がサンフランシスコ・ベイエリアに居た頃は、アップル・コンピューターも黎明期であり、接近遭遇の機会が度々あった。当時、カリフォルニア州立大学の生徒たちに、アップル・コンピューターは、モニター的なサービスでタダ同然の価格で、Macを提供していた。私も、大学の購買でMac PlusとMac SEを購入し使っていた。その発想も、スティーブ・ジョブらしい発想からのことであった。州立大学の学生に格安のサービス価格で提供することによって、彼等が将来卒業し社会に出た際、勤め先で彼等が必ずアップル・コンピューターを使用するであろうということで、このサービスが展開されていた。また、このサービスは、拡販目的にとどまらず、このサービスにて購入した学生は会員登録され、毎月何回か行われる、日本風に言うマックファンクラブのような大きな大会に参加する権利を得ることができた。1000人規模でのこのような大会には、毎回利用者の意見を集約するだけでなく、必ずスティーブ・ジョブズが参加していた。まだ、あの当時のPCは容量が小さく、外付けのハードディスクなどを利用する必要があり、その為の情報交換なども会員同士で行うことができた。だが、私たちにとって、何より彼の講演を毎回耳にすることが出来ることが嬉しかった。懐かしい想い出だ。

 私の母校SFSUは、サンフランシスコの街の南端にあった。そのままパラアルトというスタンフォード大学のある街へは車で30分程で赴けた。色々な場所で、大会は開催されたが、私の場合は大抵、スティーブ・ジョブズの母校、スタンフォード大学があるパラアルトでの大会に参加していた。ここに集う学生たちは、皆PCに非常に強い興味を示しており、いや、アップル・コンピューターに示しており、あの頃の仲間の数人は、今でもアップル・コンピューターに勤めている。

 Mac自体の魅力もさることながら、彼の話の面白さはずば抜けていた。もともと、アメリカの大学では、タイプライターは必需品であったため、タイプライターからPCに移行するということは案外容易なことであった。私たち学生も、大学に入るとまずタイプライターのスキルを高めるクラスを取ったりしていた。宿題も、論文も、全ての課題がタイプライターなしではなりたたなかった。そんな状況下、大学の学生にターゲットを当てた彼の発想は非常に面白かった。というか、彼自体の中に、学生と同じ発想があったからであろう。発想が非常に柔軟で、既成概念に全く囚われない彼の発想、イコールアメリカ人の発想と、当時私は非常に感動したものだ。

 あれから30年近くの月日が流れ去り、その間彼自身アップルとの関係でも紆余曲折あり、まだ56歳という若さで急逝してしまった。残念だ。世界でも、非常に柔軟な発想であるアメリカ人の中でも、彼らの世代のアメリカ人は、特に柔軟なアメリカ人世代であるように私は思っている。1970年代に、ベトナム戦争という苦難の時に育ちながら、反戦運動に身を投じ反骨精神を身に付けた。そんな彼等の世代は、非常に柔軟な発想のできる人々だ。あの世代のアメリカ人たちは、今起こっている新しい時代を切り開いたパイオニアたちだ。スティーブ・ジョブズしかり、ビル・ゲイツしかり、この地球上に産業革命に続き、技術革命を起こした人々だ。ご冥福をお祈りする。
[PR]
by seizaikai_club | 2011-10-10 11:27 | アメリカ関係

脳梗塞顛末記

脳梗塞顛末記
2011年10月1日

 約一か月前。八月下旬に、私は脳梗塞と脳内出血に倒れた。昼過ぎ仕事の打ち合わせを予定通りこなし、3時前に次のアポに移った。それまで何の異常もなかったのだが、3時過ぎ突然異変が訪れた。時間は3時10分過ぎ、突然言葉でなくなった。話そうとしても、まったく言葉が出てこない。だが、酷い頭痛があるわけでもなく、ただ言葉が出てこない。同席していた仕事の関係者が後に曰く、あの時、不思議な動きを私はしていたそうだ。何が起こったのかと思ったという。同時に、言葉が全く出てこなくなり、表情がなくなった。それだけでなく、こちらからの質問へもまったく答えなくなってしまた。その様子は、異常な感じであり、少々怖くなったという。間違いなく、何か身体的に異変ができたとわかったので、暫くカウチに静かにさせようとしたとのことだ。実際、小一時間カウチで寝ていた。

 ところが突然すっくと立ち上がり、言葉もなく部屋を出て車に乗り込んで去ってしまった。車の運転ができるのかと非常に心配であったという。3時過ぎからの記憶は、私自身はほとんど残っていない。ただ、自力で運転をしながら、防衛医大まで必死に向かった。そのことはよく覚えている。もう既に思考能力が低下し、自分の車でありながらハザードやウィンカー、ナビまで操作ができなくなっていた。後から考えると、操作方法等が、記憶からまったく消えてしまったということだ。頭の中では、言葉をしゃべっている。ところが、声として出ない。運転しながら、一生懸命話そうとしていた。同時に、時間と共に右半身がどんどん痺れおかしくなってきた。病院に着くころには、左手も痺れていた。

 そんな状況下でも、兎に角二年前に入院した防衛医大に向かわなければと、そればかりを思っていた。何故ならば、2年前の経験で、自分の中で最も信頼できる病院であったからだ。しかし、自分がいた場所は都内、約50キロ程度をかなり危険な状態で運転してきた。今考えると恐ろしいことだ。それでも、自分の中では、救急車で運ばれれば、知らない病院に入れられてしまう。それならば、防衛医大に入りたいと、思ったのであろう。

 よくも警察に止められることもなく、無事1時間たらずで防衛医大まで辿り着いたものだ。既に時間は、午後6時10分過ぎ。救命救急センター前に、迷惑な駐車の仕方で車を乗り捨てた。エンジンを止め、鍵を掛け、これはもう無意識であったに違いない。そのまま救命救急センター入り口の受付にヨタヨタと辿り着いた。誰の目にも、異常が理解できたのであろう。直ぐに、ERの先生方が現れた。私は崩れ落ちた。先生の「多分脳内出血」という声が聞こえた。意識が薄れた。気付けばストレッチに乗っていた。周囲の音や声は聞こえていた。慌ただしく、周りが動いていた。聞き覚えのあるCTの音がした。まるで、他人事のように、自分を中心に、バリアの中にいるようであった。自分のことでありながら、客観的に全てが見えていたような気がする。

 暫くすると、名前や生年月日、住所など訊かれた。ところが、言葉がでない。必死に、言葉にしようとするのだが、言葉にならない。必死に、子供たちの名前だけ繰り返してたそうだ。特に、数字が全く出てこない。住所の数字、生年月日の数字、数字が頭の中からどこかに消え去ってしまったようだ。またしばらくして気付くと、ストレッチに乗せられ、長く暗い廊下を進んでいた。エレベーターをいくつか乗り継ぎ、気付けば病室に辿り着いた。動けないようにベッドに拘束具で、両腕と腰を拘束された。頭が激しく痛み、横に寝ていることが辛かった。吐きそうである。頭を一杯に上げてもらい、アイスノンをいくつか頭の下に敷いた。どれだけ時間が経ったのであろうか。窓際のベッドで、窓の外が漆黒の闇に包まれていた。自分の頭の中のようで、暗闇の迷路を彷徨っているような気持ちであった。

 翌日の朝目を覚ますと、右半身が依然痺れていた。だが、手も足も動く。必死に動かしてみようと試みた。左手の痺れはすっかり取れていた。窓の外に網が貼ってあり、その網にセミが何匹も留まっていた。ところが、「セミ」という言葉がでなかった。いや、声自体がでない。それでも、前夜よりもましになっていた。自分の名前が言える。生年月日は言えないし、住所の番地等も言えなかったが、住所なども言えるようになった。30分掛かって、「セミ」という単語を探し出した。平仮名が、バラバラに飛び回っていた。身動きできない中、暫く眠りに落ちると、息子の姿が目の前にあった。胸を撫で下ろした。見回してみると、妹や母、それと友達が集まってくれていた。救命救急センター前に駐車した車を、友達に任せ自宅に持ち帰ってもらった。もしかすると、この二日目の記憶は実際には三日目であったのかもしれない。この辺の記憶は、私の中にはない。

 三日目には、担当医も驚くほどに、右半身不随は元に戻り、言葉も戻りだした。「100-7=」からずっと引き算を繰り返された。だが、暗算がまったくできない。元来数字には弱い私にとって、引き算は苦戦した。だが、平仮名は直ぐに再学習した。担当医にも、前向きでリハビリ意識が非常に高いと褒められた。だが、一度死んでしまった細胞は戻らない旨を知らされた。再学習、リハビルしか方法はないと宣告された。だが、落ち込むことはなかった。兎に角、どんどん再学習(リハビリ)するしかない。時間は十分にあった。兎に角、必死で再学習した。みるみる言葉も戻りだした。

 息子が持ってきてくれた「本能寺の変 四十七年目の真実」という本を読んでみた。読める。だが、1ページを読むのに1時間掛かった。まるで、左側と右側で、まったく別の世界が広がっているようだ。左側で認識できる単語は、今まで通り目に入る。だが、右側で認識できる単語は、例えひらがなでも未知の世界のようだ。グルグルと目が回るように、行がグルグルと回っていた。

 そうこうしていると、担当医から病状の説明があった。三か所の脳梗塞と脳内出血を起こした。一番大きな脳内出血は、脳の「角回」という認知を司る部分で起こっているとのことであった。驚かされたのは、今回以外に、若い頃に交通事故で患ったであろう古い梗塞を含め、全部で六ヶ所の梗塞か所が確認できるとのことであった。今まで、障害が出ていなかったことが不思議だという。確かに、担当医に言われてみると、兆候があったのかもしれない。ただ、自分で気付いていなかっただけだ。1年以上前より、酷い後頭部の頭痛に苦しんでいた。ロキソニンを常用していた。また、3時間以上眠れなかった。「あの」「その」というようなことが多かった。物忘れが多かったし、ここ数カ月は、洗い物で兎に角よく食器を落として割っていた。バックの際に、ハンドルを非常に重たく感じていた。どれも、兆候であったのであろう。

 不思議なことがある。それは、ぐっすり眠れるようになった。溶けるように眠ることができるようになった。これは、非常に大きい。まるで何年振りかに本当の眠りにつけるようになったような気持ちだ。リハビリによる再学習を続けながら、右腿の付け根より、カテーテルを脳まで入れ治療を行った。そうこうしている内に、退院を迎えた。そして、昨日1ヵ月検診まで辿り着いた。

 死んでしまった脳細胞は元に戻らないそうだ。そこにあった記憶も元には戻らない。再学習、リハビリしかない。昨日の検診では、脳に傷があるので癲癇発作が起こる確率もあるとのこと。半年間は、運動を控え運転なども控えた方がよいとのこと。そうはいっても、生活をしていかなければならない。まあ、これが自分の運命なのであろう。身体は実年齢より元気だが、脳年齢は実年齢より酷く老化しており、何時死んでもおかしくないとのこと。無理して生きてきたツケが回ってきたのかもしれない。だが、それでも家族を守り、生きていかなければならない。これが、人間の運命というものだ。甘えるのではなく、生きていかなければならない。二年前の入院、そして、今回の入院。天にもちびかれて、生かされていることを実感させられた出来事であった。
[PR]
by seizaikai_club | 2011-10-01 13:58 | 今日の独り言

「政治をもっと身近に」をスローガンにして、日本人にもっと「愛国心」を喚起すべく語る。
by seizaikai_club
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31
政財界倶楽部代表  恩田将葉
 「政治をもっと身近に」をスローガンに、一人でも多くの日本国民が政治に関心を持ち、参加してくれるよう、執筆活動、出版活動等を通じ「愛国心」啓蒙活動をしている。国際化が進む世界の中で、日本の政治も若者の手で変革しなければならない!!

 政財界倶楽部代表恩田将葉は、 アメリカ合衆国カリフォルニア州で約9年間生活。その間、サン・フランシスコ州立大学(San Francisco State University, SFSU)国際関係学部で国際関係学と政治を学び、朝鮮半島問題専攻で卒業。その後、暫くアメリカで現地法人の会社(People Intertrade, Inc.)を経営した後帰国。帰国後は、記者と編集者を経て出版社である株式会社ぴいぷる社と株式会社政財界出版社、そして、夕刊紙「内外タイムス」を発行する株式会社内外タイムス社の社長に就任。活字業界一筋に生きてきた。現在は、経営から一歩引き、国際情勢ならびに政治を中心に、ジャンルを問わず執筆活動を継続中。プロの文士として、随筆、小説、脚本等あらゆる分野で執筆活動を展開し、文章を綴ることを天職としている。そのかたわら、日本に、嘗てのごとく「愛国人」を増やすべく、「政治をもっと身近に」をスローガンに、自ら「政財界倶楽部」を運営している。

検索
カテゴリ
タグ
以前の記事
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧