政財界倶楽部         (恩田将葉見聞録)

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三代世襲の北朝鮮を中国は?

三代世襲の北朝鮮を中国は?
2010年9月29日

北朝鮮では、
キム・ジョンウンが実質的な後継者として、
軍の要職、
政治の要職に任命された。
これで三代続いての世襲ということになる。
予てより北朝鮮の世襲に不快感を表していた中国は、
この現実をどう受け止めているのだろうか。
共産主義の思想とは、
明らかに矛盾する北朝鮮の在り方を、
中国はご都合主義で受け入れるのだろうか?
それとも水面下でのアメリカとの北朝鮮対策に、
本腰を入れだすのであろうか?
しかし、
今回の尖閣諸島問題での中国の対応を見ていると、
あまり期待できるようには思えない。
なぜなら、
やはりまだ、
国際社会における中国の対応ならびに外交政策は、
あまりにも幼稚で大人げないからだ。
ここまで大分見直していただけに、
残念至極だ。
だが、
自国勝手な言い分は、
結局
あまり北朝鮮と変わらない。
同じ穴のムジナということか。
それにしても、
胡錦濤と温家宝は、
政治家として評価していただけに、
今回の温家宝の対応には、
些か失望させられた。
残念の一言。
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by seizaikai_club | 2010-09-29 07:42 | 朝鮮半島情勢

魚釣島のヤギについての誤解

魚釣島のヤギについての誤解
2010年9月28日

 魚釣島にヤギが繁殖し、生態系を崩した責任は日本青年社にあるような心無い記事がネット上を横行している。「なぜヤギを持ち込んだ?」等の悪意に満ちた質問が、一方通行で多々掲載されている。当事者ではないが、非常に憤りを覚える。

 なぜなら、彼らがヤギを持ち込んだ理由は、27年前に自費で日本固有の領土を死守するべく建てた灯台の保守管理のために、社員が島に滞在するにあたって、万が一に備えての食糧確保が目的でヤギを連れ込んだのだ。台風等が通過する位置にあり海が荒れることも多く、石垣島まで戻れない事態になった際、食いつなぐために肉も乳も食用になるヤギを持ち込んだのだ。ところが、予想外にヤギの繁殖力は旺盛で、瞬く間に番い2頭だったヤギは100頭以上に増えてしまったのだ。

 だが、考えてほしい。領土を守るためにやったことが、この時期にこんなことで批判される様をみていて、私はこの国の現状を非常に憂う。命がけで領土を守ろうとした人間が、英雄扱いされるのではなく非難されるのだ。今そんなことを吹聴すれば、中国の思うつぼではないか。そういう批判をネット上で繰り広げる輩こそ、売国奴と呼びたい。本当に、そういう人間の感性を疑う。信じられない。
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by seizaikai_club | 2010-09-28 16:36 | 領土問題

中国漁船監視船へ断固たる対応を!

中国漁船監視船へ断固たる対応を!
2010年9月28日

中国漁船船長保釈後、
中国政府の漁業監視船が、
尖閣諸島近海の接続海域を継続的に航行しているとのこと。
日本政府は、
海上保安庁ならびに海上自衛隊による、
監視を強化して、
中国漁業監視船へ断固たる姿勢での対応をするべき。
船長保釈という弱腰外交を繰り広げた直後、
一連の中国の対応は、
幼稚で卑劣極まりない。
同じ土俵にのってはならない、
との意見もあるが、
国際社会ではそうではない。
ここでさらに弱腰になれば、
尚一層中国政府の幼稚な対応を助長することになる。
何としても、
今度こそは断固たる態度で臨むべきである。
それが国益を守る日本国政府の役目だ。
言ってもわからない無法者国家へ対しては、
ひるむことない強い対応で臨むべきだ。
経団連会長が、
経済的影響を懸念する記者会見をしたが、
これこそ言語道断。
経済を優先し、
政治外交を二の次にしたら、
結局は経済的にも、
中国にやり込められることになる。
政治を経済に投影する中国のやり方が間違っているのだから、
日本がそれに呼応する必要はまったくない。
中国にも経済的影響はでるはずである。
断固たる態度が、
今は必要な場面である。
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by seizaikai_club | 2010-09-28 07:30 | 領土問題

言語道断:中国人船長釈放

言語道断:中国人船長釈放
2010年9月25日

 昨晩、突然、那覇地検は、尖閣諸島魚釣島近海で、公務執行妨害によって逮捕していた中国漁船船長を釈放してしまった。早速、中国政府はチャーター機を石垣島の空港に飛ばし、夜中午前1時30分過ぎに到着した。その後手続きを済ませ、釈放された船長をチャーター機に乗せて中国へと帰国してしまった。何故、このタイミングで釈放したのか。しかも、那覇地検は記者会見で、日中関係に配慮しての裁定であったと発表した。しかし、外交問題に言及したり配慮したりすることは、地検による謁見行為であり、総理大臣ならびに現政権によることが筋である。仙石官房長官は、記者会見で、地検による司法判断と言ったが、それではあまりにも無責任過ぎる。これは、国益に関わる重大な問題であり、対応次第では日本の威信に関わる問題だ。今回のような中途半端な対応は、国際社会で日本が弱腰であることを露呈することであり、地検をはじめ政府の判断は、国益を損なうものである。

 一体、このような日本国の尊厳を損なうような決断を誰がくだしたのか。いくつかの可能性が考えられる。

1)菅政権が、日中関係を配慮し、地検に圧力を掛け中国に譲歩す
る形で釈放を決断した。
2)財界からの圧力によって、仙石官房長官が責任を負う形で決断
した。
3)中国政府に社員4人を逮捕された中堅ゼネコンFUJITAと親し
い、元警察官僚で司法に強い大物代議士が、那覇地検の担当者
を中央に戻す約束で行った。これは、民主党内撹乱の意味をも
含んでいる。この代議士は、逆恨みをすることで知られてい
る。また、小沢一郎と親しいことでも知られている。簡単にい
えば、リベンジだ。自らが出した法案が通らなかったことと、
小沢一郎が代表選に落ちたことへの逆恨みだ。FUJITAは代々司
法関係官僚系代議士と親しいことで知られる企業だ。
4)財界の大物からの依頼で、自民党大物代議士が那覇地検の担当
者に、やはり霞が関への移動と引き換えに、中国人船長を釈放
させた。勿論、これにも民主党政権の足を引っ張る目的が潜ん
でいる。
5)大阪地検の不正事件から国民の目を逸らせるために、地検が独
断であのような判断を下した。

 いずれにしても、那覇地検の記者会見で、「日中関係に配慮して」という一文が発表されたことは、問題発言であり意味深いものであることは間違いない。あの発言をすることで、政治的圧力があったことを故意に国民に知らせようとしているとも考えられる。または、大阪地検の不祥事から目を逸らす目的だとも考えられる。いずれにしても、その目的は間違いなく果たされた。夜が明けて、今朝は、どのメディアも中国漁船船長保釈の問題で持ち切りだ。

 だが、よく考えて頂きたい。この決断は、そんなに簡単な問題ではない。これは、間違いなく日本外交史における大きな汚点だ。理不尽を言われ、人質まで捕られているにもかかわらず、人質を取り戻す前にこちらが確保している人質を解放してしまっては、次の手が詰ってしまうのは当たり前だ。そもそも、主導権を失う。ケンカは、主導権を取った方が勝ちだ。外交も、まったく同じことだ。私利私欲や政治家や地検の思惑で、このような愚かな決断をくだしたのであれば、これは国賊級の犯罪行為ということになる。日本の将来を危ういものにしかねない。間違いなく、国際社会で日本の威厳を損なったことは間違いない。そのことを国民は、真摯に受け止め声を上げ行動を起こすべきである。いずれにしても、全ての最終責任は、菅総理にある。日本人は、本当に日本人の誇りをなくしてしまったのか。この国の未来を憂わずにはいられないのは私だけか。領土問題は国益の第一義、国の要だ。そのことだけは、忘れないで頂きたい。政治家も、一人一人の国民も。
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by seizaikai_club | 2010-09-25 11:00 | 領土問題

恩を仇で返す人

恩を仇で返す人
2010年9月23日

世の中には色々な人がいる。
数千万円の金をその人物に貸した。
その半分は詐欺であった。
素直に謝れば、
こちらも人生勉強と思い諦める。
だが、
こちらの善意と好意に付け込んで、
貶めるようなことを繰り返す。
さすがに裁判を起こした。
勿論結果は私の勝訴。
詐欺も認められた。
だが刑事告訴はしなかった。
予想どおり、
それでも金は返ってこなかった。
そんなことはどうでもよい。
私が許せないのは、
彼が騙して持っていった金は、
亡父が重粒子線の治療をしようと用意した金だった。
「明日には返す」と言って、
土下座した彼。
しかし、
彼が持ってくるはずもなかった。
亡父は、
瞬く間に詐欺であることを立証した。
だが何も言わなかった。
私が彼を信じて頼んだからだ。
私の中では、
謝っても謝りきれない気持ちで一杯だ。
亡父に命を掛けさせてしまった。
本当に申し訳ない。

数年が経ち、
結局彼は変わらないと思った私は、
全て水に流すと彼に告げた。
勿論彼は同意した。
ところが、
その直後より、
彼はあろうことか、
私を貶めるようなウソを業界内で吹聴しだした。
信じられない。
今でも、
彼はマスコミ界や芸能界で大きな顔をして
嘘で固めた本を出し
テレビなどにも出て、
肩で風をきっている。
笑ってしまうような
虚構に満ちた
スープに浮いた灰汁のような世界、
目立ちたがりの彼には
お似合いなのかもしれない。

ところが最近、
困りごとが彼の身に起こり、
誰も処理できないようなことで、
身に危険が及んだら、
性懲りもなく彼は、
私に泣きついてきた。
面の皮が厚いとは、
こういう男のことを言うのだろう。
笑ってしまう。

これが世の中だ。
51歳にして、
今はそんなことを思い、
静かな心でいられるようになった。
この世こそが地獄、
一寸先は闇である。
だが、
地獄とも感じなくなった。
今を生きることを心がけるようになったら、
どうでもよくなった。
世捨て人のごとく、
今は非常に心穏やかだ。
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by seizaikai_club | 2010-09-23 01:08 | 今日の独り言

無責任なネット上の似非情報

無責任なネット上の似非情報
2010年9月20日

 ネット上には色々な情報が氾濫している。個人を誹謗中傷するような情報も横行しており、私も裁判を何度も起こしたことがある。だが、勝訴して削除命令が裁判所から下っても、そういう似非情報が削除されることは滅多にない。私に関しても、色々と書かれているが、結局一つずつ私が管理者に連絡を取り削除を促すという形で解決する場合が多い。それでも、削除されないモノは多く、管理者さえ見つけられない場合が多い。運よく見つけても、直ぐにサーバーを引っ越してしまったりして、結局のところ似非情報は継続的に掲載される。掲載されるだけでなく、検索ソフトで何度も何度も執拗に繰り返し掲載順位を上げられてしまう。まったくもって困ったものだ。

 私の亡父のことも、「出版界の怪人」だとか「ブラックジャーナリスト」とか、言いたい放題である。挙句の果てに、政治専門誌として発行していた雑誌まで、総会屋雑誌だなどと誹謗中傷されてしまう。確かに、単行本で、故小川薫という総会屋さんの本を出版したことはあるが、それは研究本のようなもので私も亡父も総会屋ではない。お会いすれば一目瞭然なのだが、知らない人はそう思ってしまう。総会など、私も亡父も自分の会社のものしか出たことなどない。笑い話だ。初めて会った人に、「もっと怖い人かと思っていたら、全然違いますね」などとよく言われる。それだけ、ネット上での情報が氾濫していると同時に、人々はネット上の情報に依存している部分が大きいということかもしれない。困ったものだ。

 何故こういうことが起こるか考えてみると、答えは2つある。1つは、誰の懐にでも飛び込んでしまう特技を持っていた亡父は、非常に顔が広かった。また、顔が広いだけでなく、誰とも非常に親しくなった。総理大臣からヤクザの大親分まで、その幅は驚くほど広い。その上、人目を憚らず誰とでも親しくお付き合いさせて頂いていた。そういう付き合いの中から、情報を自ら得ていたのだ。一度、こんなことを私は亡父に訊いたことがある。「恩田は、金儲けのために記事を書いているとか、企業舎弟じゃないかって吹聴している奴がいるが、いいのか?」すると亡父は、間髪いれずにこう答えた。「やましいことや、人に後ろ指差されるようなことは1つもしていないんだから、気にするな。言いたい奴には言わせておけ。人は、服を脱がせて素っ裸にしたら、総理大臣もヤクザもない。皆同じだ。身体に悪戯描きがしてあるか否かの違いぐらいだ。政治家だって財界人だって、悪い奴は沢山いる。男なら、人のいうことなんか気にするな。自分の目で見極め、自分の正しいと思う筋を通せ」私には、返す言葉がなかった。自分のケツの青さを思い知らされた。多分、そんな亡父の包み隠さない人付き合いを見て、嫉妬した同業者などが、想像の範疇で話すのであろう。実際に、利害などまったくなしに、非常に親しくしていた人は、業界を問わず沢山いた。そうでなければ、葬式に2000人近い人々が集まってくれるはずもない。その上、本気で涙を流してくれる人があんなにいるはずがない。ありがたいことだ。改めて皆様に感謝致します。

 もう一つの答えは、逆恨みであろう。亡父も私も、色々な事件を記事として雑誌で取り上げたり本にしたりしてきた。色々な企業の不正も暴露した。結局のところ、書かれて困ることを書かれたので、その仕返しに私たち親子を誹謗中傷する内容の文章を書くのであろう。ある意味、私たちが記事にしたことが、本当であると相手は認めているようなことだと私は常々思っている。一部同業者の中には、記事を書いて金を受け取ってなどと心ないことを言う人もいる。だが、それも、世間で一部の限られた人が、想像をもとに吹聴していることであって、そんなことはまったくない。亡父が他界した際、出てきたのは負の財産、借金ばかりであった。しかし、個人で遊んだりして使ったものは一つもなかった。全ては会社のための個人保証、それだけだ。だが、その額は膨大であった。だからといって、私は亡父を微塵も恨んでいない。亡くなってから、より尊敬の念が強くなった。何故なら、亡くなってみて初めて、亡父が自分の中での筋をちゃんと通して生きていたことが分かったからだ。人は、恩田は随分と大金を受け取って私腹を肥やしていた、財産をバカ息子に残したと吹聴している。だが、まったくそんなことはない。今でも、私は亡父が残した負の財産の処理に日々奔走している。

 亡父は、去勢をはって生きてはいたが、真っ直ぐに生きていた。そのことが断言できるとわかっただけでも、私は非常に嬉しく思っている。例え、現実的に厳しいことがあっても、そんなことは何でもない。亡父が真っ直ぐに生きていた証拠であって、恥じることではない。亡父が他界してもう直ぐ丸九年が経つ。時が過ぎ行くのは早いものだ。益々亡父のことが好きになる今日この頃である。この記事を書くか否か迷ったが、亡父の名誉のために、筆を取ることにした。
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by seizaikai_club | 2010-09-20 13:41 | 今日の独り言

尖閣諸島の歴史  第五話

尖閣諸島の歴史   第五話
2010年9月17日

 このような状況を踏まえて上で、尖閣諸島問題をより深く理解するために、その歴史を少し紐解いてみよう。

 尖閣諸島は、古くから琉球民族に知られており、大正島(国有地)は久米島から近いことから、19世紀合半あたりから久米赤島と呼ばれるようになっていた。

 尖閣諸島の名称は、西欧諸国が通商の目的で来覇した軍艦が作成した海図や水路誌の中にも記述されている。が、しかし、我が国が1895年(明治28年)に領土編入措置の閣議決定を行うまで、いずれの国の領有にも属さない地域として、国際法上無主地であった。明治維新後の1872年(明治5年)に琉球王国は琉球藩となり、1874年(明治7年)に内務省の直轄となり、1879年(明治12年)に琉球藩が廃止となって沖縄県となった。同年3月に発刊された「大日本全図」(松井忠兵衛編)は私人が作成し、内務省の版権免許を得て観光されたものであるが、この地図には、「琉球諸島」の中で「尖閣列島」として記載されている。

 1884年(明治17年)には福岡県八女郡山田村出身の古賀辰四郎氏が絶海の無人島に調査団を派遣し、その後には、漁業、べっ甲の捕獲、貝類、アホウドリの羽毛の採取を行っていた事実がある。1884年(明治18年)9月22日、沖縄県知事は、出雲丸による実態調査を行うにあたって、尖閣諸島に国標を建立すべく内務省に上申書を提出したところ、内務省は「沖縄県が実態調査の上、国標を建立することは差し支えない」という見解を示した。つまり、尖閣諸島は、どこの国からも領土権を主張されておらず、いまだ無主地である内務卿も考えていたのであった。

 日本政府は、1885年(明治18年)以来、沖縄県当局を通じるなどして、尖閣諸島の実地調査を行い、「この諸島が清国に所属する証拠がない」と判断した後、1895年(明治28年)占有論によって日本の領土として閣議決定した。

 1884年(明治17年)に、尖閣諸島に調査団を派遣した古賀辰四郎氏は、翌1885年(明治18年)から二度にわたって、魚釣島など四島の「借用願」を政府に申請していた。10年間を経過した1895年(明治28年)に、政府が尖閣諸島の領土編入措置を決定したことから、翌1896年(明治29年)9月に、ようやく同諸島(国有地)のうち四島を、30年間無料貸与される許可を受けることが叶った。

 尖閣諸島の借用許可を受けた古賀氏は、翌1897年(明治30年)から、大規模な資金力により、大阪商船須磨丸を諸島に寄港させ、開拓に着手した。1902年(明治42年)には、これらの功により、古賀辰四郎氏に勲章「藍綬褒章」が授与された。その後、島の開拓は、古賀辰四郎氏の子息である古賀善次氏に継承され、全盛期には、200人を超す人たちが魚釣島に居住して産業開発に努めた。

 1926年(大正15年)、30年間の無料貸与期間が満了になったことにともない、以後1年契約の有料貸与に改め、1932年(昭和7年)3月31日、日本政府は、古賀氏に、尖閣諸島の中の四島を有料で払い下げた。しかし、古賀氏の事業も第二次世界大戦直前には、船舶燃料が配給制となったため、渡島ができなくなったことから廃止となり、今日を迎えた。

 そのような状況下、1978年(昭和53年)に、武装した中国漁船団が、尖閣諸島の領海を侵犯し、海上保安庁の巡視船「やえやま」を威嚇するという事件が起こった。この事件を契機に、弱腰な姿勢を続ける日本政府に業を煮やした日本青年社という政治結社が、自費にて日本の領土を守るべく立ちあがった。そして、同年8月11日午後3時15分、5名の日本青年社勇士が、尖閣諸島魚釣島に上陸し灯台を建立した。翌8月13日、日中平和友好条約調印の日に、初めて灯台に「尖閣の灯」すなわち「日本の灯火」が点灯された。この時、建設した灯台の光達距離は、20キロメートルであった。以来27年間、一度も休むことなく、灯台の保守・点検を日本政府に代わって日本青年社が自費で続けた。そして、2005年(平成17年)、小泉政権下、魚釣島の灯台は、日本青年社から日本政府へと移譲された。その際、日本青年社から出された移譲の条件は唯一つ、日本政府が責任を持って日本の領土である尖閣諸島を死守するということであった。

※この記事は、私自身の執筆により、2005年3月号「月刊政財界」に掲載されたものを、一部新たに加筆修正したものである。
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by seizaikai_club | 2010-09-17 21:23 | 領土問題

尖閣諸島領土紛争の経緯  第四話

尖閣諸島領土紛争の経緯  第四話
2010年9月17日

 既に記したように、1968年(昭和43年)秋、国連アジア極東経済委員会(ECAFE)の協力を得て、日本、韓国、台湾、フィリピン、そして、アメリカの科学者たちが参加し、東シナ海一帯にわたって海底調査を行った。その結果、東シナ海の大陸棚には、有望な石油資源が埋蔵されている可能性があることが指摘され、これが契機となって尖閣諸島がにわかに関係諸国の注目の的となったのである。その後、中国が尖閣諸島の領有権を突然主張しはじめ、新たな関心を呼ぶに至った。そのような状況下、領有問題が日本のマスコミに取り上げられたのは、1970年(昭和45年)7月に、台湾政府がアメリカのガルフ・オイルの子会社パシフィック・ガルフ社に北緯27度以南の台湾北東海域、すなわち尖閣諸島が全部入る海域の探査権を許可した時が初めてである。このことが発端で、各種マスコミの取材合戦も始まり、関係各国入り乱れての紛争に進展していった。

 これに対して日本政府は、1970年(昭和45年)8月、愛知揆一外務大臣(当時)が、参議院沖縄・北方特別委員会で、台湾政府がとった措置は国際法上違反であり、その旨を台湾政府に申し入れたことを明らかにした。

 その後、台湾政府は、探査発掘の権利は台湾政府にある旨を表明した。また、台湾水産試験場所属の海憲丸が、魚釣島晴天白日旗をたてるなどの行為を行い、日本政府の申し入れを拒否する姿勢をとった。

 これに対して、日本政府は台湾政府に抗議し、大陸問題に関して交渉することを再度申し入れたが、実質的にはほとんど進展しなかった。

 一方、この時は中国も、台湾政府がとった措置は中国領土を侵犯するものである、と台湾を非難する姿勢を示した。

 1972年(昭和47年)の沖縄返還に際して、アメリカ上院外交委員会は、沖縄返還協定の審議に当たって、本会議への勧告書の中で、「沖縄返還協定の取り決めは、尖閣諸島に関するいかなる国の主権保有の主張にも影響を及ぼさないことを確認する」との見解を発表し、本会議の支持を得た。

 その後、尖閣諸島の領有問題は、日中間で棚上げにされたまま、対立が続いていた。その理由は、中国が日本政府との日中友好条約交渉に尖閣諸島の領有問題を出すのはマイナスとの判断があったからにすぎない。

 1972年(昭和47年)5月15日に沖縄が日本に返還された後の9月27日、北京で時の総理大臣田中角栄と毛沢東主席がトップ会談の場をもち、その場で合意した問題に関して行った共同声明にも、「主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵ならびに平和共存の諸原則の基礎の上に両国間の恒久平和友好関係を確立する」と明記されている。

 ところが、1978年(昭和53年)8月12日に日中平和友好条約が締結された年の4月、機関銃で武装した百数十隻の中国漁船が大挙して尖閣諸島に押し寄せ、一週間に渡って日本領海を侵犯するという事件が発生した。この事件は、時の日本政府に大きな衝撃を与えた。しかし、悲しいかな、当時の日本政府はただただ狼狽し、北京政府に対して武装漁船の引き揚げを打電するだけが精一杯であった。この時の日本政府の軟弱な対応は、日本の軟弱外交姿勢を中国政府に露呈するだけになってしまった。

 翌1979年(昭和54年)、中国の鄧小平副首相が日本を訪れた際、福田赳夫首相との会談後、立ち寄った大阪での記者会見の席で、尖閣諸島問題に触れ「この盛大の人は、知恵が足りない。次代の世代の人に任せよう」と発言して、事実上尖閣諸島問題は棚上げされた。一見、日中間での尖閣諸島領有紛争は、落着したかのように見えた。しかし、実際には、当初兵の巧みな言い回しによって、「尖閣諸島棚上げ論」は、中国にも領有権主張の根拠があるかのごとく、内外に知らしめてしまう結果となってしまった。鄧小平率いる中国側の方が、事実上役者が一枚上手であったということだ。

 中国側は、現在もこのような紛争を度々引き起こしながら、その都度、「棚上げ論」をふりかざし、一歩一歩着実に領有権の実現に向かっての足がかりを積み上げている。中国が、尖閣諸島を自国領土と主張する根拠は、国際法上も占有理論上も皆無である。が、しかし、度重なる中国側の主張を聞かされ続けていると、現在、日本と韓国の間で紛争状態となっている竹島のように、やがて尖閣諸島も中国領土になってしまうのではないだろうか、と錯覚してしまうほどである。ここが、非常に危険なポイントである。戦後教育によって、歴史認識が甘くなっている日本人の中には、これらの領土問題においても、日本人でありながら、日本の領土を主張するのではなく、中国側があたかも正しいような言い方をしてくる輩さえ登場してきている。それは、あまりにも執拗に中国が、間違った歴史観を主張し続けるものだから、歴史認識が甘い一部の日本人は、洗脳されたような状態になってしまっているのであろう。

 それだけではない。日本が1952年(昭和27年)4月28日に、サン・フランシスコ講和条約発効によって、主権を回復した3カ月前の1月17日、韓国李承晩大統領が一方的に、海洋主権宣言を発して、日本固有の領土である竹島を、李承晩ラインの中に含まれるものとして警備隊を常駐させ、武力をもって実効支配したことと同じような事態を招いてもおかしくないということだ。

※この記事は、私自身の執筆により、2005年3月号「月刊政財界」に掲載されたものを、一部新たに加筆修正したものである。
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by seizaikai_club | 2010-09-17 21:07 | 領土問題

尖閣諸島領土紛争の発端   第三話

尖閣諸島領土紛争の発端   第三話
2010年9月17日

 では、何故、それが一転し、台湾も中国も、尖閣諸島の領有権を主張しだしたのか? それは、利害に関わる非常にドロドロとした事柄が発端である。

 1968年(昭和43年)10月12日より同年11月29日の間、国連の海洋調査団が、この海域の海底調査を行った。そして、1969年(昭和44年)5月に、その調査の結果が、国連アジア極東経済委員会(ECAFE)によって公表された。この時から、この海域が一躍脚光を浴びることになった。何故ならば、この海域に多くの海底資源が眠っていることが明らかにされたからである。勿論、台湾、中国だけでなく、日本もこの調査結果には、大きな関心をよせた。そして、1969年(昭和44年)と1970年(昭和45年)の二度にわたって、日本政府は東海大学に委託し、尖閣諸島周辺海域の海底地質調査を行わせた。その結果、海底には石油の根源石である海成新第三紀堆積層が、尖閣諸島を中心に約20万キロ広がり、その層厚も3,000メートル以上に及んでいることがわかった。これらの調査結果が、紛争発端なのである。

※この記事は、私自身の執筆により、2005年3月号「月刊政財界」に掲載されたものを、一部新たに加筆修正したものである。
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by seizaikai_club | 2010-09-17 20:58 | 領土問題

台湾も中国も日本の領土と認めていた  第二話

台湾も中国も日本の領土と認めていた   第二話
2010年9月17日

 もともと、台湾も、中国も、尖閣諸島に興味はなかった。いや、興味がないというよりも、尖閣諸島を日本の領土として認めていた。1965年(昭和40年)10月に、中華民国国防研究所が発行した「中華民国地図集」や、中国地学研究所が出版した「世界地図集、第一冊、東亜地図」等にも、尖閣諸島は日本領土として記載されており、台湾や中国の領土とはなっていない。1970年(昭和45年)1月に発行された中国政府の「国民中学地理教科書」には、「尖閣諸島」と日本語で記載し、琉球列島の先島諸島、すなわち宮古、八重山群島の中に含めている。台湾も中国も、尖閣諸島は日本の領土である、と認めていた証拠だ。結局、彼らには、何もない無人島である尖閣諸島に、興味がなかったということだ。

※この記事は、私自身の執筆により、2005年3月号「月刊政財界」に掲載されたものを、一部新たに加筆修正したものである。
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by seizaikai_club | 2010-09-17 20:48 | 領土問題

「政治をもっと身近に」をスローガンにして、日本人にもっと「愛国心」を喚起すべく語る。
by seizaikai_club
S M T W T F S
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政財界倶楽部代表  恩田将葉
 「政治をもっと身近に」をスローガンに、一人でも多くの日本国民が政治に関心を持ち、参加してくれるよう、執筆活動、出版活動等を通じ「愛国心」啓蒙活動をしている。国際化が進む世界の中で、日本の政治も若者の手で変革しなければならない!!

 政財界倶楽部代表恩田将葉は、 アメリカ合衆国カリフォルニア州で約9年間生活。その間、サン・フランシスコ州立大学(San Francisco State University, SFSU)国際関係学部で国際関係学と政治を学び、朝鮮半島問題専攻で卒業。その後、暫くアメリカで現地法人の会社(People Intertrade, Inc.)を経営した後帰国。帰国後は、記者と編集者を経て出版社である株式会社ぴいぷる社と株式会社政財界出版社、そして、夕刊紙「内外タイムス」を発行する株式会社内外タイムス社の社長に就任。活字業界一筋に生きてきた。現在は、経営から一歩引き、国際情勢ならびに政治を中心に、ジャンルを問わず執筆活動を継続中。プロの文士として、随筆、小説、脚本等あらゆる分野で執筆活動を展開し、文章を綴ることを天職としている。そのかたわら、日本に、嘗てのごとく「愛国人」を増やすべく、「政治をもっと身近に」をスローガンに、自ら「政財界倶楽部」を運営している。

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