政財界倶楽部         (恩田将葉見聞録)

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選挙制度改革の必要性

選挙制度改革の必要性
2007年4月26日

 今回の統一地方選挙で思ったことがある。それは、選挙制度の改革だ。何事にも完璧ということはないのであろう。現行の選挙制度も、過去紆余曲折があり辿り着いたということも記憶を呼び覚ませば理解できる。しかし、時代は流れ、変貌を遂げている。嘗ての政治と、今の政治では少々様相が違う。政治とは本来民衆の身近にあってしかるべきもの。しかし、現実はそうではなかった。それが、過去、昭和の日本政治であった。国民中心ではなく、政治家や財界人や一部特権階級的な人種が主導権を握っていたというのが本当であろう。だが、日本政治も、小泉前首相登場以降一変した。国民に主権が本当の意味で戻りつつある。

 現行の選挙制度は、旧態依然とした政治家主導の時代に構築された制度である。当然のことながら違和感が出て当たり前だ。そもそも、あれだけの候補者が名乗りをあげても、正直あの限られた期間の中で誰が良いかと選択することは至難の業である。候補者は皆、必死に街頭で演説を繰り返し、宣伝カーで街中を走り回っている。だが、手を振られ目が合っただけで投票はできない。やはりそれぞれの候補者の人となりを知り、政治に対する情熱やらなにやらを感じ取れなければ、いい加減には投票できない。無所属が主流の今、嘗てのように候補者というよりも政党へ対して投票するということにも違和感を感じる昨今、あまりにも候補者に関しての情報を知る術が少なすぎる。

 それは、立ち止まり長時間の街頭演説も聞きたい。しかし、全員の候補者の街頭演説を聞いていたら日が暮れてしまう。そうかといって、実際に街頭演説を聞け、触れ合うことのできた候補者だけから選んでしまうのも、何か不公平な気がする。実は、それ以外の候補者の中に素晴らしい人材がいたかもしれない、などと後悔が残りそうな気さえする。にもかかわらず、折角それぞれの候補者が作成したマニフェストを有権者の自宅へ配布したり郵送したりすることは、現行の公職選挙法では禁じられている。一々有権者が、各候補者の事務所に赴いたりして入手しなければならない。事務所がどこに所在するかも定かではない。何十人といる候補者の事務所全てを訪問することも難しい。これは如何なものか? 非常に大きな疑問を感じる。

 候補者の顔が好いから選んだ、感じが良いから選んだ、という時代ではない。しっかりと各候補者の政策案を理解し、それぞれの候補者の人となり、政治に対する情熱、そして、有権者へ対しての忠誠心と国へ対する愛国心を確認した上で選択したいし、するべきである。有権者の意識も、昔とは違い、そのような方向へと向かっている。政治へ対する興味は間違いなく上がっている。それだけ、政治家へ対する目も厳しいものになりつつある。こういう状況下、旧態依然とした政党政治型選挙制度を温存する意味はない。本来であれば、今年は選挙年である。それは以前からわかっていたはずだ。今年の選挙前に、選挙制度の改正をしておくべきであった。それが、本来政治家の為すべきことであったはずだ。何事につけ、自分達の思惑と我欲で判断し動こうとするから、このように全てが後手に回るのだ。兎に角、一日も早く選挙制度改革を実現するべきであり、選挙制度改革を実現することが、有権者である国民より選ばれて政治家になった諸氏によって、唯一有権者である国民に示せる忠誠心の証であると強く思う。
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by seizaikai_club | 2007-04-26 12:10 | 政治

長崎市と長崎市民の不幸

長崎市と長崎市民の不幸
2007年4月24日

 先週、選挙戦も終盤にさしかかった頃、「長崎市長銃撃される」という度肝を抜くようなニュースが日本中を駆け巡った。正直、「またか」と思ったと同時に、「やはり歴史は繰り返されてしまうのだな」とも思った。

 人のマインドの中に残った事件の残像は、まるで神様の悪戯のように、ある時突然ある人の脳裏に蘇ることがある。そして、その残像が、いつしか自分と重なりあってしまうのだ。この銃撃犯の中では、きっと以前に起こった長崎市長銃撃事件が、非常に印象深く脳裏に残っていたのであろう。多分、彼の中では、格好の良い出来事として残っていたのであろう。だからこそ、長崎市とトラブルを抱えた彼の中では、同じ方法で自分もスターになろうというような心理が働いてしまったのかもしれない。いずれにしても不幸なことである。

 もう一つ不幸なことがある。故伊藤市長死去にともない、新たに二人の候補者が急遽立候補した。一人は、故伊藤市長の娘婿。そして、もう一人は、前市課長である。どちらも、ある意味弔い合戦という意識の中での立候補であったのであろう。穿った見方をすれが、これ以上のチャンスはない、と心中思ったに違いない。結果は、皆様ご承知の通り、娘婿は敗退し、前市課長が当選した。この際、故伊藤市長の娘が泣き崩れながら、いささか履き違いも甚だしいコメントを吐露した。

 まるで、夫が落選したのは市民の所為であり、夫が落選したから志半ばで急逝した故伊藤市長も浮かばれないとまで言い放った。これには、少々驚いた。いや、呆れ返ったというほうが正確かもしれない。政治というものをまったくわかっていない。まるで、市長という公職を、手放しがたい権威職か名誉職とでも受け止めているかのようにさえ聞こえてしまった。きっと我々が想像する以上に地方都市における市長という立場は、一国一城の主ではないが、殿様的存在であったのかもしれない。そのことは、家族達にとっては、志を持って市長職を務める故伊藤市長以上に強かったのかもしれない。あのコメントを聞いていたら、そんな気がしてならなかった。

 夫が当選しなかったことで故伊藤市長は浮かばれない、とまでの賜った。しかし、それは逆である。あのようなコメントを娘がすることで、故伊藤市長の功績にまで泥を塗り、それこそ浮かばれないとしか思えない。彼女の中では、これから今までのようにお姫様でいられなくなることへ対する危機感しかなかったのかもしれない。

 政治とはそういうものではない。それは、政治の私物化、履き違いも甚だしい。あのような感覚で選挙や政治を捉えているのであれば、落選して当然。いや、落選してよかった。もし当選していれば、長崎市民は、今よりもっと不幸を味わうことになっていたであろう。娘婿は、永田町詰めの新聞記者であったという。優秀であったのであろう。政治にも詳しかったのであろう。しかし、だからといって、政治に長けているとはならない。政治とは、そんなに生易しいことではない。

 そうは言っても、当選した前市課長にとっても、茨の道が待ち構えていることは間違いない。短い選挙期間中、市民と手を合わせて皆で行う市政を・・・、というような綺麗事を言っておられた。しかし、政治は、そんなに甘っちょろいことでは成り立たない。ましてや、昨日まで課長であった人間が、一夜にして市長に成り上がったのである。昨日までの上司を、今日からは部下として使わなければならないはずだ。これは至難の業だ。余程のしたたかさ、ずるさ、そして、強靭な精神力を持ち合わせなければ、とてもではないが、市政云々以前に潰れてしまうはずだ。人は見かけに寄らぬ、と言うので彼の資質は今はわからない。お手並み拝見ということであろう。

 しかし、どちらにしても、不幸なのは長崎市と長崎市民である。たった三日程度で、候補者の人となりが理解できるはずもない。そのような状況下、市長を選択しなければならなかったのだ。これ以上の不幸はない。後戻りはできない。ママゴトではないのだ。政治ゴッコでもないのだ、仲良しクラブで市政を立て直すなどということが本当にできるのであろうか? 政治とは、もっと泥臭いものではないか。非常に大きな疑問を感じざるを得ない。
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by seizaikai_club | 2007-04-24 16:55 | 政治

バージニア工科大学銃乱射事件にみる韓国的学歴格差社会の問題点

バージニア工科大学銃乱射事件にみる
韓国的学歴格差社会の問題点
2007年4月24日

 4月16日の早朝、名門バージニア工科大学で銃の乱射事件が発生し、多くの学生がその凶弾に倒れ命を落とした。近未来のアメリカを背負って立つ人材を排出する名門大学の一つであるだけに、多くのアメリカ人達は、今回の暴挙に対し大きな憤りを覚えているようだ。

 アメリカの大学は、一部の私立大学を除き、ほとんどが自治体制でなりたっている。キャンパスには、キャンパス・ポリスとかスクール・ポリスと呼ばれる自衛警察が組織され、一つの町のような形で成り立っている。当然のことながら、学長はその頂点に立ち全てを司っている大統領のような存在だ。よって、大学のキャンパス内で起こった事件は、まずキャンパス・ポリスがその処理に当たる。当然のことながら、今回のような重大な事件に関しては、キャンパス・ポリスからその大学がある街の治安を預かるポリス(市警)もしくは郡の治安を預かるシェリフ(保安官)に連絡がとられ、事件に関しての検証と捜査が行われる。ある意味、二重、三重構造になっているとも言える。

 一般的に、どこでもポリス(市警)とシェリフ(保安官)はあまり仲がよろしくない。そして、ポリスとシェリフは、キャンパス・ポリスを見下している場合が多い。そうなれば、当然のことながら、初動捜査の段階で、混乱や誤認が生まれやすくなる。今回の事件に於いても、そのような微妙な縄張り争い的な不協和音があったのではと思われる。そのことが、午前7時半頃、ドミトリー(学生寮)で起こった二人の生徒が殺された事件後の大学による対処を誤らせた可能性は非常に高い気がする。

 アメリカの大学生は、非常に勤勉である。勉強をしたくない者は、大学には進学しない。大学に籍をおくものは、皆勉強するために大学に通っている。大体、その日の最初の授業は、どこの学校でも午前8時から始まる。そうやって考えると、ドミトリー(学生寮)のエレベーター・ホールで射殺された二人の学生は、8時からの授業に向かう途中エレベーターを待っていたと考える方が自然である。男女関係の問題で起こった事件と判断した警察の判断ミスであることは容易に想像がつく。8時からの授業に出席するために、7時半にドミトリー(学生寮)を出るというのは至極自然である。そこで、授業前の学生が言い争いをしていたとは思えない。

 それではなぜ犯人は、あのような凶行に至ったのであろうか。基本的には、やはり人種の問題ではなく本人の精神的な問題が大きいのであろう。しかし、犯人が、あれだけ激しい憎悪をつのらせたには、それなりの理由もあったはずだ。

 男性にとってアメリカは、男社会である。多くのアメリカ人は、男は強くあるべき、女子供をはじめとする弱者を守るべきということが西部開拓時代よりDNAとして身体に埋め込まれている。軟弱な男は男ではない、というような風潮がある。時代が変わり、馬車や馬は自動車になったが、アメリカ人の精神は西部開拓時代と今も何も変わっていない。だから、このような銃による悲惨な事件が何度起こっても、銃規制という方向には動かないのである。勿論、政治的な理由もある。しかし、その政治的な理由も、根底にはアメリカ人の上記したような西部開拓時代から綿々と続く精神があるから生じることなのだ。

 外国人、特にアジア系の留学生男子が、一番最初に直面する問題はこの問題である場合が多い。当然のことながら、皆が皆そうではないが、一部のアメリカ人は、男としての洗礼行事のようなノリで、イジメのような差別行為を行う場合が多い。中には、本当に心底からの人種差別行為がある場合もあるが、それは極稀である。

 例えば、私が最初に寮に入った時には、こんなことがあった。私は、子供の頃より武道をやっていた。当然のことながら、日本の文化である武道を、留学で有効に使わない手はない。州立大学に入学する前の群立大学の学園祭のようなイベントの際、日本語クラブからの懇願で少林寺拳法と空手の演舞をしたことがあった。そのことが、州立大学に入学してからも誰からか噂で流れていたのであろう。一部の寮に住まう学生によって、私は布団で簀巻きにされ外に放り出された。普通だと、ここでニコニコして泣き寝入りする東洋人が多いのであろう。しかし、もともとナチュラル・ハイで気性の激しい私は、当然のことながらブチ切れた。泣き寝入りするのではなく、自分を簀巻きにした布団を簀巻きにした連中へ返しにお礼参りに伺った。しかし、不思議なことに、その時の連中とは、そのことがきっかけで、その後大親友になり、今でも付き合いがあるほどである。ある意味、ハッタリで生きているアメリカ人男性というのは、最初に意味もなく攻撃してきて、その反応で相手を判断するという性質があるようだ。そのような洗礼を受けて下を向いて逃げ出せば、「チキン(意気地無し)」呼ばわりされてしまう。しかし、例え負けても立ち向かえば、「なかなか気骨があるじゃないか」というような具合で仲間に引き入れられる。

 この犯人は、多分、中学とか高校時代に、そのような仕打ちを受けたに違いない。しかし、まだ分別のない年頃である。きっと彼が受けた仕打ちも酷かったのであろう。また、彼もそれに立ち向かえなかったのであろう。そして、理不尽な仕打ちに対する悔しい思いや憤りだけが、心の中で屈折して蓄積され、あのような凶行を起こすまでに至ってしまったのではないか、と想像できる。しかし、如何なる理由があろうとも、あのような凶行は許されるものではない。

 もう一つの動機は、韓国的学歴格差社会によるところが大きいのではと思う。韓国は、日本以上に学歴社会である。学歴があるかないかで、明らかに大きな格差がある。そのことを、韓国人は痛感している。よって、韓国人の親達による教育熱は、想像を絶するものがある。

 中学生になったら塾通いは当たり前。日本でも昨今塾通いは当たり前になっている。だが、少々、様子が違う。韓国の場合、子供達は、学校から塾へ直行する。そして、夜中の2時とか3時まで塾で勉強をする。睡眠をとるため帰宅しても、数時間後には、普通どおりに朝早くから学校の授業がある。勿論、塾への送り迎えは親の役目。夜中に中学生の子供達が自分達だけで帰宅できるはずもない。危険極まりない。停戦協定下ではあるが、まだ韓国は戦時下である。教育に関してこのように熱狂的なことは、昨今の日本のニュース番組でも、韓国の受験に関するニュースで放映されているので多くの読者の方々も想像できるはずである。白バイで受験会場まで送り届けられたり、大学の門のところでは、多くの人々が受験生をサポートしたりと、その熱狂振りは半端ではない。日本でも、最近、一部の大手受験塾は、同じカバンを持たせ、受験会場出入り口付近で、拍手や歓声を送り受験生にエールを送るなどという馬鹿げたことをしているが、あれは韓国の真似である。

 このような状況下であれば、当然のことながら格差が生まれる。それだけ、子供達の教育に熱狂的になれば、それに比例して教育費もかさむ。毎日塾に通い、しかも夜中までとなれば大変なお金が掛かる。それだけではない。送迎にもお金は掛かる。お弁当も作らなければならない。結局、ある程度の収入がなければ、最初から受験戦争に参戦することさえできないのだ。そして、それだけでは終わらない。大学に入学したら、今度は社会人になるまでに、最低一度は海外留学の経験がなければ、いくら良い大学を卒業していても学歴は満たされないのだ。大変なことである。

 このような教育環境であるが故に、どこの国民よりも韓国人の留学生が世界中には多い。国土的にも、人口的にも、他国と比較すれば非常に小さい国であるにもかかわらず、留学人口はどの民族にも負けない。裏を返せば、このような学歴構築ができない人々には、チャンスがないのが韓国社会といっても過言ではない。そうなれば、チャンスを手にすることのできない人々が、もっと可能性のありそうな他国へ移住するということは至極自然である。だが、それはそれで、多くの問題を抱えている。夢を抱いて移住はしたが、実際にはやはり厳しい現実がそこにはある。これが、今回の銃乱射事件の犯人がおかれていた状況であったのであろう。何とも悲しむべきことである。犠牲者のご冥福を祈る。
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by seizaikai_club | 2007-04-24 15:16 | 教育

政治本来の有り様を見せる東国原知事

政治本来の有り様を見せる東国原知事
2007年4月24日

 そのまんま東こと東国原知事が、宮崎県知事選に登場した時は、マスコミを筆頭に、賛否両論色々な意見が飛び出した。正直、私自身も、落ち目芸人の売名行為では、とさえ思ってしまった。

 しかし、知事に当選し、これまでの東国原知事の言動を見ていると、何とも天晴れである。政治家の本来あるべき姿を見せてくれていると言えよう。久々に、面白い政治を見せてくれている。政治とは、本来民の身近にあってしかるべきもの。ところが、昨今の政治家達は、何を勘違いしたか、政治家を職業と間違え、特別な権威者にでもなったような振る舞いばかりである。政治家は、本来、公人中の公人であり、公僕中の公僕である。国政にたずさわる政治家達は国のために、地方自治にたずさわる政治家達は、その地域のために身を粉にして働いて当然。

 東国原知事の言動は、上記したような政治家のあるべき姿を体言している。当初、宮崎県議会で主流を占めていた自民党県議達は、恫喝ともとれるような偉そうな言動を繰り返し、東国原知事へ圧力をかけようとしていた。ところが、東国原知事は、そんな圧力に屈しなかった。屈しないどころか、逆にそのような圧力を逆手にとってバネにした。本当に天晴れである。

 どちらが正しいかは、県民が答えをだしてくれた。例を見ない高支持率。また、一昨日の選挙では、県議会議長ならびに前県議会議長がそろって落選。何とも気持のいい話ではないか。偉そうにしていた悪代官が、水戸黄門に成敗された時と同じような爽快感を覚えた。それだけ、日本の政治が腐っているということであろう。暴力を肯定はしない。しかし、先日射殺された長崎市長にしても、談合や裏金問題で、近々逮捕という噂が流れていた矢先の事件であった。

 東国原知事の偉いところは、その行動力にある。兎に角、一生懸命宮崎ならびに県民のために頑張っている姿が、人の心を動かしている。当たり前のことなのであるが、今の日本では忘れら去られていることかもしれない。

 人が、唯無心で一生懸命前に進んでいこうとしている姿は美しい。本来、政治家とはあのようにあるべきだ。まだ、色々と東国原知事を批判したり、中傷したりするコメンテーターや政治家も多い。しかし、そういう方々に問いたい。「あなたも、東国原知事と同じように行動できるのですか?」と。見ていて、あれだけ頑張って、一体身体はもつのであろうか、と心配になってしまうほど頑張っている。しかし、その努力は、全て結果として表れている。宮崎県のセールスマンと謳い全国を飛び回っていることによる経済効果は、予想を遥かに上回る数字をはじきだしている。それだけでも、知事になってまだ数ヶ月ではあるが、知事として選任された恩返しを宮崎県ならびに県民にしていると評価してもよいであろう。

 確かに、一部の人々が懸念するように、東国原知事は思ったより頭がよく、色々な思惑があり頑張っているのかもしれない。しかし、彼が頑張っていることは間違いなく、疑う余地はない。それは、政治家になろうという者が、中央の赤絨毯を踏みたいと思うのは当たり前。それを目標にすることが、まるで悪であるかのような言い方をする人々こそ、悪意に満ちている。人というのは、明確な目標設定ができれば、本来の力の何十倍の力を発揮できる生き物なのである。ならば、それはそれでよいではないか。今の彼の頑張りようを見ていると、もし、将来的に国政に打って出ても、充分国民を納得させるだけの活躍ができるようにさえ思う。芸人出身だからと色眼鏡で見るべきではない。

 どちらにしても、小泉さんが首相の座を降りて以来、折角面白くなりかけていた政治の世界も、またまた旧態依然とした面白くもない政治家達が肩で風を切り闊歩しだし、面白くなく思っていた。そんな吹き溜まった状況下、東国原知事は久々に爽快な政治ドラマを演出してくれ、私は非常に嬉しく思っている。彼の政治力を、評価したい。
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by seizaikai_club | 2007-04-24 13:31 | 政治

下天の内をくらぶれば夢幻のごとくなり

下天の内をくらぶれば夢幻のごとくなり
2007年4月2日

 最近、あまり記事を書いたりブログを更新したりしていない。読者の皆様には、申し訳なく思っている。だが、筆が進まない。いや、正直に言えば、自分のケツに火がついており、原稿を書いているどころではないというところか(笑)。

 まあ、冗談はさておき、正確に言えば、筆が進まないのでも、ケツに火がついているからでもない。どうも、世相を論評すること自体に大きな疑問を感じているというところだ。所詮、私の書く文章など、私の個人的な考え方でしかなく、それを書いたからといって、己自身の自己満足、マスターベーションでしかあり得ない。そんなことを考えると虚しさを何故か感じてしまった。それと、あまりにも、今の日本の社会全体、日本人の多くの価値観が堕落しているように思えてならないからだ。

 多くの日本人の価値観が堕落している、などと私が言える立場ではない。しかし、日々ニュースで流れる事件や事象をはじめ、身の回りで見聞する多くの事柄が、あまりにも虚しい価値観に根ざしている気がしてならない。私自身、そんな偉そうなことを言えるような人間ではない。人様にも多大なるご迷惑をかけ続けている。だが、今の日本人の在り様は、あまりにも情けない。そんな気がしてならない。

 日々報道される、政治家達の言動にも、いい加減呆れ返って言葉もない。公人としての自覚も、我々国民の代表としての自覚もまったくない。それどころか、政治家としての本分する自覚していない。まるで、政治家とは聖職ではなく、生活の糧のための職業であるかのように勘違いしているとしか思えない言動の数々、我々国民が彼ら政治家を信用も信頼もできなくなって当たり前である。

 また、我々国民も、自分達が帰属するこの国のことに関してあまりにも無関心過ぎる。国なんかどうでもよい、それよりも自分のことが最優先、自分さえ良ければそれでいい。そんな考えの日本人が溢れている。車を運転していると、我先に、法律など関係ないとばかりに、滅茶苦茶な運転をしている輩が多くいる。オートバイは、人の危険など関係なく、自分達のことばかりを優先した無謀な運転を繰り返し、歩行者達は、歩行者が最優先とばかりに、肩で風を切って闊歩している。街に溢れる日本人達は、「ゆずる」という日本人が嘗て持ち合わせていた美徳を忘れ去り、我先にと血相を変え人を掻き分けている。そんな浅ましき日本人達は、市井で火花を散らし、怒鳴り合いを繰り返す。まるで、不良のごとくに怒鳴り散らす。普通の人々が、まるで傍若無人な輩のごとくに暴れまわる。それでも、周囲の人は、知らん顔で通り過ぎる。面倒なことには関わりたくないとばかりに。

 先日、こんな風景を目にした。交差点で、信号が変わるのを待っていた。そこは、別にスクランブル交差点でも何でもない。ところが、一人の中年女性が、乳母車をまるで盾のようにしながら、その交差点を斜めに横断してきた。歩行者の信号は、どの向きも既に青信号から赤信号に変わっていた。にもかかわらず、当たり前のように堂々とした顔つきで渡っていた。一台の車が、クラクションを鳴らした。するとその女性は、その車に向かって睨み返し罵声を吐いた。とても、赤子を乗せた乳母車を押している女性とは思えなかった。彼女が、乳母車の中の赤子を気遣っているようにも見えなかった。寧ろ、乳母車も、乳母車の中の赤子も、彼女が優先権を得るための道具に使っているとしか思えなかった。何とも嘆かわしい光景であった。世も末である。まるで、それは地獄絵のようでさえあった。私には、そのように見えた。

 企業は、金にまかせて政治家を抱きこみ、自分達の都合のよい法律ばかりを作り上げる。そして、都合の悪いことは、まるでトカゲの尻尾切りのように闇から闇へと葬りさる。しかし、自分の手は汚さない。汚れた手は、法律を使って社会から抹殺する。例え、冤罪をでっち上げてでも。地中に有害物質を埋め知らん顔。原発では、臨界状態に陥っても隠蔽する。消費者を騙して掻き集めた保険料は、網の目に張り巡らされたファイン・プリントを使って払わない。綱渡りの商売をして、金儲けに奔走する。国民のことも、国益なども関係ない。自社の利益を追求するためには、自国の魂までもかなぐり捨てる。そんな大人達の浅ましい姿を見ている子供達が、大人達の言うことを聞くはずもない。金にまかせて、少女達を買春する大人達の後姿を見た子供達は、当たり前のごとくに我欲に任せて女性達を襲う。そんなジャングルに生を受けた女性達は、平気で男達を弄ぶ。

 企業は、際限なく自動車を売りまくる。しかし、庶民は、道交法で雁字搦め。それどころか、まるで商売のごとくに取り締まられ罰金を払わされる。にもかかわらず、自動車を後先考えず売りまくる企業は、まったく罰せられない。駐車場の数以上に自動車を売らせておいて、駐車場に駐車しないからと捕まえて、罰金ばかりを払わせるというのは如何なものか? まず、販売された自動車の台数に見合った比率の駐車場を確保して、はじめて取り締まりができるのではないか。駐車する駐車場がないにも関わらず、道交法は改正し、自動車を売ることは規制しない、そんな企業のご都合主義ばかりを優先した片手間な政治はあるであろうか。

 時の首相はおっしゃる。全ての人々に平等に、再起できるチャンスがある社会にと。しかし、現実はどうだ。日本の社会でも、欧米よろしく管理社会に移行しつつある。全てが番号で管理され、一挙手一投足まで管理されている。市中には防犯の名の下に監視カメラが張り巡らされ、電車に乗るにも、電話を掛けるにも、クレジットカードなしには儘ならない世の中になりだした。その反面、格差社会の狭間で、自己破産を余儀なくされる人々も多く出ている。自己破産をしても、7年で元通りの生活に戻れると法律家達は軽く言う。しかし、実際には、何をするにもクレジットカードが必要な時代になりつつある。自己破産した人間は、隅へと追いやられ、人間以下の生活を強いられるのが現実だ。「再起のチャンス」などという綺麗事は、結局のところ絵空事でしかない。

 選挙をみても、今の日本人の程度の低さを感じる。立候補者を見てみれば、誰が本物で誰が偽者かは一目瞭然である。しかし、そんなことさえ見極める目さえ失ってしまっている日本人。借金塗れで、債権者から逃げるために立候補している人間。売名行為で立候補している人間。世の中を転覆せんと邪な思いで立候補している人間。その多くが、国や、国民のために立候補するのではなく、自分の私利私欲思惑で立候補している。まったく嘆かわしい。冗談でも、市中に張り出された立候補者のボードに、政府転覆、国家転覆などという文字を並べたポスターを張り出すことなど許すべきではない。そんなふざけた立候補者を受け入れるこの国の感性を疑う。自由を履き違えているにも程がある。

 マスコミも、真実、事実を報道するというよりも、如何に視聴率を集め、如何に発行部数を上げるかしか考えていない。何でもかんでも面白おかしく読者や視聴者が喜べば、多少捏造しようがガセネタでも構わない、などという非常にレベルが低い考え方が蔓延している。事象を真に掘り下げるのではなく、足の引っ張りあいにばかり終始する。本当に嘆かわしい。人の揚げ足をとることばかりを考えている。真っ直ぐに物事を捉える目を失っている。偏向したご都合主義で、歪んだ目で世の中を見つめている。嘘が本当になり、不実が真実になってしまう。恐ろしい世の中である。それどころか、自分と意見を異にしたものは、全て抹殺し抹消してしまおう、というような了見の狭い人間が大手を振ってこの国を牛耳っている。嘘八百をネットに流し、さも真実のごとくに吹聴し、例え真実であっても自分にとってマイナスと思えば、容赦なく葬り去る。自分勝手な輩が横行している。しかし、多くの人々は、見聞するものを本当だと思い込んでしまう。嘆かわしい限りである。偽善者が大手を振って、好き勝手をするのが今の日本である。

 あまりにもネガティブで後ろ向きなことばかり書き綴ってしまった。しかし、正直に感じていることを書き綴ったつもりだ。私たち人間社会は迷走しだしている。そして、その迷走する我々人間が生活をしているこの地球は、悲鳴を上げている。温暖化は進み、地震があちらこちらで頻発し、人間が為した歪をリセットしようとしているかのように。今こそ、真剣に我々の子孫のために、この地球の、我々人間界の未来を考えなければならない時は既にきている。もう、躊躇する暇はない。そんな気がしてならない。
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by seizaikai_club | 2007-04-02 18:52 | 今日の独り言

「政治をもっと身近に」をスローガンにして、日本人にもっと「愛国心」を喚起すべく語る。
by seizaikai_club
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政財界倶楽部代表  恩田将葉
 「政治をもっと身近に」をスローガンに、一人でも多くの日本国民が政治に関心を持ち、参加してくれるよう、執筆活動、出版活動等を通じ「愛国心」啓蒙活動をしている。国際化が進む世界の中で、日本の政治も若者の手で変革しなければならない!!

 政財界倶楽部代表恩田将葉は、 アメリカ合衆国カリフォルニア州で約9年間生活。その間、サン・フランシスコ州立大学(San Francisco State University, SFSU)国際関係学部で国際関係学と政治を学び、朝鮮半島問題専攻で卒業。その後、暫くアメリカで現地法人の会社(People Intertrade, Inc.)を経営した後帰国。帰国後は、記者と編集者を経て出版社である株式会社ぴいぷる社と株式会社政財界出版社、そして、夕刊紙「内外タイムス」を発行する株式会社内外タイムス社の社長に就任。活字業界一筋に生きてきた。現在は、経営から一歩引き、国際情勢ならびに政治を中心に、ジャンルを問わず執筆活動を継続中。プロの文士として、随筆、小説、脚本等あらゆる分野で執筆活動を展開し、文章を綴ることを天職としている。そのかたわら、日本に、嘗てのごとく「愛国人」を増やすべく、「政治をもっと身近に」をスローガンに、自ら「政財界倶楽部」を運営している。

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