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官民で「日の丸検索エンジン」を開発するなら検索エンジンの規制基準をも明確にするべき

官民で「日の丸検索エンジン」を開発するなら
検索エンジンの規制基準をも明確にするべき
2006年8月25日

 今日の読売新聞朝刊一面に、「日の丸検索エンジン官民で開発へ」という記事が掲載されていた。偶然にも、昨日執筆した「ネット犯罪規制に関する記事」の中でも、検索エンジンに関することに多少触れた。案外安易にこの検索エンジンを人々は取沙汰してしまっている。だが、検索エンジンこそ、非常に影響力の大きいシステムなのである。何故なら、多くの視聴者は、検索結果だけを見て満足してしまうからだ。どういうことかというと、こういうことだ。

検索エンジンに調べたい事柄の名称や人の名称などを入力して、検索というボタンを押す。そうすると、調べたいと思った事柄や人の名称に関連する、ネット上で公開されている文字情報や画像情報などを全て探しだしリストアップする。リストアップされた検索結果には、それぞれの情報内容が、二行程度の文章に要約されて記載されている。大抵の場合、視聴者は、この検索結果から得た情報全てにアクセスしてみるということをせず、検索結果リストに記載されている二行程度の紹介文を読んで、全てを知ったような錯覚をしてしまう。ここのところが、大きな問題だ。

 確かに便利なシステムだ。瞬時にして、調べたい事柄に関連する、ネット上で公開されている情報が全てリストップされる。しかも、それらの紹介文が二行程度ではあるが掲載されるからだ。全部の情報を見聞しなくとも、検索結果に表示されている紹介文を読むことで、あたかも全部の情報に接したような気分を得ることができる。しかし、ここのところに落とし穴がある。この紹介文に、事実無根な情報を流してしまえば、ある意味情報操作も可能になってしまうからだ。

 特に、個人に関する情報に関しては、非常に大きな問題だ。私自身が、このような問題を抱えているのであるが、個人的に恨みを持った人間が、恨む相手に関し、根も葉もないことをネット上で書きまくることも可能である。何故ならば、現状、他メディアとは異なり、ネット上には監視システムも、規制団体もないからだ。ということは、嘘八百でも実しやかに記事にし、公開することも可能なのだ。それだけではない。問題は、この先である。

 それらの似非記事も、検索エンジンでそのターゲットとなった人物の名称を打ち込み、検索ボタンを押せば、関連記事紹介として検索結果に例外なくリストアップされてしまう。そして、リストアップされた検索結果である関連記事には、二行程度の紹介文が表示される。その紹介文に、個人を誹謗中傷したり、事実無根の事柄が掲載されたりしてしまうのである。人名で検索を掛けた場合、大抵、それぞれの記事にアクセスして全てを見聞するよりも、検索結果に記載されている紹介文を読み判断してしまうということの方が、人間の心理として多い。それは、人間の心理的な行動パターンなのだ。個人に関する情報は、少ない情報を深く知るよりも、より多くの情報を浅く知りたいという心理が働くのだ。井戸端会議的な感覚が強いということだ。スキャンダラスな噂話が、人は好きだということである。非常にワイドショー見聞するような感覚で、深くは知る必要もないが、噂は一つでも多く知りたい、という人間の習性に起因するのだ。

 しかし、検索エンジンを使って、この人間の習性を逆手にとると、それこそ一人の人間を社会から抹殺してしまうことさえ可能になる。検索エンジンに、個人に関しての負の情報を故意に流せば、その個人の社会的信用を失墜することは非常に容易い。しかし、現状、そのような行為を規制するシステムも法律も実質何もない。

 大袈裟だという読者がいるかもしれないが、実際に、ネット上で、「あそこの社長はもう直ぐ自己破産をする」という根も葉もない噂を流され、不安になった債権者が一斉に手形や小切手を振り込み、倒産へと追い込まれてしまったというケースは幾つもある。また、親が逮捕され前科があるような嘘の情報を流され、そのことが学校で噂になり登校拒否になってしまった、などというケースも多々ある。

 確かに、官民で、検索エンジンを開発することは、大きな経済効果を期待することができるのかもしれない。また、産業界にとっても、大きな金の卵なのかもしれない。しかし、政府には、国民を守る義務もある。検索エンジンに関しては、慎重かつ冷静に開発を進めなければ、取り返しの付かぬことになりかねない。上記したような個人情報だけではなく、詐欺等にも悪用される可能性もある。その程度ならよいが、他国に悪用され、情報操作により、国民を不安に陥れることだって可能である。使いようによっては国益に関わることにも悪用される可能性があるのだ。

 だからと言って全てを否定しているわけではない。ただ、検索エンジンの開発を推し進めるのであれば、同時進行で、いやそれよりも早く、規制基準や、ネット犯罪に関する防止法、並びにネット上でのストーカー行為や、名誉毀損事案を防止できるような法律の成立が必要不可欠である、ということを言っているのだ。政府は、経済効果ばかりに目が眩むのではなく、国民の安全や個人のプライバシーを守るべく、法的規制にも力を注いで頂きたい。
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by seizaikai_club | 2006-08-25 12:23 | 政治

影響力が急激に増大するネット上での「ペンの暴力」に対する規制の必要性

影響力が急激に増大するネット上での「ペンの暴力」に対する規制の必要性
2006年8月24日

 ネットがこれだけ社会に浸透し、コンピューターや携帯電話なしの生活が想像できない現状、インターネットが人々に与える影響力は、新聞や雑誌やテレビなどに代表される各種マスメディア以上に絶大である。その影響力の大きさに、規制が比例していないというのが現状だ。ネット上では、不特定多数の誰もが、記事を配信することが出来る。そして、不特定多数の誰もが、それらを見聞することができる。しかし、新聞や雑誌やテレビのようなマスメディアのように、規制する組織もシステムもまったくない。無法状態というのが現状である。

 そのように、ネット上が無法地帯で、無責任な事実無根な誹謗中傷記事を垂れ流しているにも関わらず、読む人間は、そこに書かれていることが、新聞や雑誌やテレビと同じく、信頼性の高い記事と勘違いして見聞してしまっている。そこのところに大きな問題がある。ネットの視聴者は、他のメディアの視聴者に比較すると、それほどその信頼性を意識せずに、目で捉え、感覚的にそれらの情報をそれぞれ個人の中で消化してしまう。それどころか、他のメディアとは違い、勝手にそれらの情報を消化した後、また勝手に加工して発信することさえ可能なのだ。そこに、ネットの怖さがある。

 事実は一つである。だが、真実とは当事者の数だけある。何故ならば、事実は一つでも、その事実に関わった当事者の数だけ、それぞれの当事者の思惑が働き解釈されるからである。そして、そのようなそれぞれの当事者の思惑にのっとった、公平な立場で検証し、精査していない偏向した真実までもが、ネット上では自由に発進されてしまう。このことは、大きな問題である。極論を言ってしまえば、ネットの使い方によっては、一人の人間の社会的信用や存在自体を抹殺することさえ可能なのである。何故なら、例え間違った情報であっても、その情報を受け止める側に受け止める自由があるからだ。このことは、非常に大きな問題であり、大切な問題でもある。ネットというのは、使い方によっては、恐ろしい人を抹殺するマシーンにさえ成り得る。そして、そのような恐ろしいネットを、多くのフリーランス・ライターが、自由に自分の記事を発進できる媒体としているところに、大きな問題がある。ほとんどの場合は良識的に、インターネットを利用している。が、しかし、中には、ネットで悪意に満ちた、個人や特定企業を陥れるような記事を、ジャーナリストという名の下に執筆し配信している輩がいる。これこそ、「ペンの暴力」である。その内容によっては、そのような悪意に満ちた記事を読んだ読者が、間に受けてしまう場合もある。

 例えば、あるフリーランスの自称ジャーナリストは、自分でブログ・サイトを運営している。そのブログ・サイトで、自らが執筆した記事を公開している。そのブログ・サイトで記事が公開していることを利用して、特定企業のスキャンダルを執筆し、記事の公開を差し止めることを条件に金銭を広告名目で受け取ったりしている。また、そのようなブログ・サイトを利用して、私憤で恨みをもつ特定個人の情報を、無制限に公開したり、事実無根の事柄を書きたてたりして、その個人の社会的信用を失墜させるというようなことも実際に起こっている。ネット上での、そのような記事を真に受けた債権者が、不安を覚え、約束を保護にして手形や小切手を振り込み、倒産に追い込まれたという会社も数々ある。また、父親に関し酷い誹謗中傷や事実無根の事柄をネット上で垂れ流され、そのことが同窓生の保護者や教師の間で話題になり、登校拒否になってしまったというようなケースもある。しかし、現状、そのようなネット上での卑劣な行為は、実際問題取り締まられていない。そのような似非ジャーナリスト達の鬱憤をはらしているだけで、そのターゲットになった被害者達には、解決策はまったくない。それどころか、救済策も、まったく為されていない。警察も、あまり積極的に取り締まりに当たれていない。結局、被害者の泣き寝入りというのが現状だ。

 このような状況下、もうそろそろ、ネット上での犯罪行為に関し、色々な判断基準を定めるべきであり、規制を開始するべきである。例えば、司法的解釈に至った場合、ネット上で掲載され続けた期間の長短を、一つの大きな判決基準にすべきである。雑誌や新聞やテレビやラジオとは違い、ネット上での記事公開は、その記事が掲載され続けている間、不特定多数の人々に見聞される可能性を含んでいる。ということは、それだけ多くの人々の目に触れる可能性があるということになる。そして、ネットの影響力は、国内だけではなく、地球規模であるということも十分考慮する必要がある。

 何故、今、このようなネットでの違法行為を取り締まるべきかというと、被害者のほとんどが、声を上げることもできずに苦しんでいるからである。社会での信用を失墜させられても、泣き寝入りをしているケースが非常に多いからだ。今こそ、出来るだけ早い段階で、政府が立ち上がり取り締まりを強化しなければ、それこそ大変なことになりかねない。何故なら、ネット上での「ペンの暴力」は、人を社会から抹殺してしまうことが可能なほど、恐ろしいことであるから。
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by seizaikai_club | 2006-08-24 19:05 | マスコミ

男性教師の不足を是正できない日本の教育現場

男性教師の不足を是正できない日本の教育現場
「男は男らしく、女は女らしく」という道徳教育が行えない日本の教育環境
2006年8月21日

 現在、日本の教育現場が抱えている大きな問題の一つに、男性教師と女性教師の比率がある。昔は、教師というと圧倒的に男性教師が多かった。しかし、いつの日からか、男性教師よりも女性教師の方が多くなってしまった。だからと言って、女性教師が良くないと言っているのではない。男性教師の比率が少なくなったということは、生徒達が男性の担任に当たる機会が少なくなったということだ。何だか、そのことがそんなに大きな問題なのか、とお思いの読者も多いであろう。だが、実は非常に大きな問題なのである。

 ある公立小学校の校長先生と話したことがある。その先生は、道徳の先生であった。大体、道徳の授業が昔に比べると少なくなったことにも大きな問題はある。だが、その先生が、校長先生として非常に頭を悩ませていたことは、どの生徒にも女性教師の担任も男性教師の担任も6年間の在校中に経験させてあげたい、ということであった。ところが、圧倒的に女性教師の方が多く、男性教師が少ないため、男性教師の担任を経験したことのない生徒が非常に増えてしまったというのだ。東京都の公立小学校の場合、公立小学校の経営は区が担当するが、教師は東京都の職員ということになっている。そこで、校長先生は一人でも多くの男性教師を採用しようと都庁へ赴き奔走したという。しかし、そこには大きな壁があるという。

 その壁とは、どのような壁かというと、まず男女雇用均等法が設立された結果、男性とか、女性とか、という選り好みをして採用することができなくなってしまったということだ。それと、教師に成る男性が著しく少なくなってしまったということもある。また、若い男性教師は、教師に成ってみはしたが、同僚教師との人間関係、保護者との人間関係、生徒達との人間関係等に悩み苦しみ、早い段階で教師自体を辞めてしまうケースが非常に多いということであった。何とも情けない話である。

 それでは、何故、女性教師だけではなく男性教師と接することが、子供達にとって必要なのか? 答えは簡単である。これは、ある意味道徳教育の延長線上の話である。昔から、特に薩摩の国などでは、「男は男らしく、女は女らしく」ということがよく言われた。何だか、この言葉尻だけをとると、男女差別だと言われてしまいそうだ。だが、実際には、そういうことではない。男にも、女にも、どうしようもない運命的な資質がある。それは、女が男より繊細で優れているとか、男が女より力持ちだとか、そういう決め付けではない。それは、こういうことだ。

 どんなに、繊細で女性よりも女性らしい男がいたとしても、男である以上子供を産むことはできない。また、逆に、どんなに男っぽく男性顔負けの力自慢の女性がいたとしても、その女性が男に子供を産ませることはできない。何故なら、子供を産むということは、運命的に男性と女性にその役割分担が為されているものであるからだ。どんなに男女平等だといっても、このことだけは人間の力ではどうにもならない運命なのだ。しかし、この定めがあるからこそ、この世の中は男と女が支えあって成り立っている。そのことを、子供達に教えることも、義務教育の大切な役割の一つなのだ。

 勿論、家庭での教育で、父、母を通して学ぶはずだ。だが、父母とはまた違った意味での、男と女ということを子供達は学校で学ばなければならない。男は女を労わり、女は男を思い遣る。そして、子孫繁栄というDNAを埋め込まれてこの世に生を受けた我々人間は、それぞれ異性を求め合う。そのことは、いけないことでも、不純なことでもない。人間としてごく自然なことなのだ。それには、父母以外の大人の男性や女性に指導を受けるということも、子供達にとっては大きな意味をもってくる。何も、男の教師でなければ、女の教師でなければ、と差別しているのではない。どう頑張っても、女性教師は男性教師にはなれないし、男性教師は女性教師にはなれない。

 本来、教師という職業は、立派な素晴らしい仕事だ。国の未来を背負う子供達を育てるのであるから。それが、何時の日からか、昔のように教師が誇り高くいられなくなってしまった。子供達が教師の言うことを聞かなくなったのは、教師を尊敬していないからだ。私達の時代は、教師は無条件に敬うべき存在であった。そういう存在であるから、教えられたことも身に付いたのだ。大体、子供達だけではなく、親も、地域も、大人達皆が、教師を敬っていた。だから、子供達も自然に、教師を敬い、教師の教えを聞いていたように思う。それが、昨今は、教室でも、子供達は教師の言うことを聞かないという。それは、周りの大人達が、教師を敬っていないからに他ならない。親が、教師の文句を家で言ったり、教師を見下すようなことを子供達の前で言ったりしてしまえば、子供達が教師を敬わなくなり、言うことも聞かなくなるのは至極当然のことである。子供達にとって、一番身近な大人は親なのであるから。時代は変わろうとも、子供達は、親の後姿を見て育ち、大人達の後姿を見て育つのである。ある意味、子供達の言動は、鏡に大人達が自分達の姿を映しているようなものである。しかし、そのことに気付いていない親が非常に多い。

 あるイギリスの教育学者が、こんなことを言っていた。戦後の日本の教育現場は、世界でも類を見ない特殊な環境にある。何故ならば、教育としての折檻までもが、暴力と取られてしまう。言ってもわからない、聞かない子供に、身をもって知らしめる。勿論、憎しみではなく、愛情に根ざしてのことだ。そのことさえもが、否定され、暴力として見なされてしまえば、親は教師を見下すようになり、子供達が増長してしまうのは当たり前。教育が、荒廃してしまうことは目に見えている。だが、日本の戦後教育は、正にこの例を実践してしまった悪例である。ということを、この教育学者はテレビで言っていた。

 だからと言って、親が全て悪く、教師が全て正しいと言っているのではない。勿論、十把一絡げに言うことはできない。教師の中にも、安易な考えでサラリーマン的な感覚で教師になった者も多くいるという。そのような不届きな教師には、お引取り願えばよいのだ。だが、中には教育に一方ならぬ情熱を抱き、一生懸命教師をしていらっしゃる方々もいる。ところが、目先のことばかりで判断し、言葉尻をつかまえて文句ばかり言い、教師や学校を雁字搦めにして機能しなくしているような親達も沢山いる。そういう親に限って、彼らは決して大人として子供達の良い手本にはなっていない場合が多い。

 教師だけではない。母親が、父親を罵倒したり、父親の悪口を子供達の目の前で言ったりしてしまえば、子供達は父親を尊敬しなくなる。また、生活の中で、母親が父親をぞんざいに扱えば、当然のことながら、子供達も母親に右へ倣え、で同じような意識を父親に抱いてしまう。その延長線上に、教師をも馬鹿にするという姿勢が生まれる。

 また、家庭が、夫婦が、円満であることも、子供達には多大なる影響を与える。夫婦が、絶えずいがみ合っていれば、子供達は不安になる。子供でなくとも、男女がいがみ合っている姿を見たいなどと思う人間はどこにもいない。子供達にとっては、最後まで頼れる大人は、両親しかいないのである。その両親がいがみ合っていれば、万が一の時自分達は大丈夫なのだろうか、と不安になって当然だ。大人にとっては些細なことでも、子供達にとっては、この世の果てに感じてしまうということもあるのだ。

 次に挙げる、身体的な成熟度の変化こそが、決定的な問題の一つである。昔に比べると、子供達の身体的な成長が早い。特に、女生徒達の成長の速さは、目を見張るものがある。私達の時代には、反抗期というと中学生や高校生の時期に起こるとされていた。ところが、現状、多くの女児の場合、小学生高学年で反抗期を迎えているという現実がある。確かに、小学校5~6年というと、中にはもう大人の女性ではないかというような体つきの女生徒も多々いる。見た目は大人である。しかし、頭の中や、心の中は、やはりまだ小学生レベルなのだ。このギャップが怖いのだ。身体の成熟度と精神の成熟度のギャップ、これが昔以上に複雑な形で反抗期を醸し出している。しかも、小学校に於いてである。

 昔は、小学校で反抗期の生徒というのは、ほとんど皆無に近かった。よって、小学校の教師達も、反抗期に対処するという心構えがなくとも教師の職務を全うできた。ところが、最近は、女生徒達の身体的成熟度が早まり、その反面精神的成熟度は以前と変わらず、心と頭が反比例した行動を取る子供達が多くなった。その結果、学級崩壊やら、生徒達とのコミュニケーションが取れなくなるという事体に陥る教師達が増え、自信を喪失し、教師自体を辞めていく教師さえ急増しているという。問題は、案外根が深く複雑である。教師の範疇だけでは、どうにもならない段階にまできている。何故なら、身体的な問題や、精神的な問題は、やはり専門のカウンセラーが必要だからだ。専門的な見識に基づいて子供達を指導しなければ、それこそ子供達を脇道に逸らせてしまうことにもなりかねない。特に、上記したような問題は、小学生高学年の段階では、女生徒を中心に出る。しかし、この頃は、女子の方が男子よりも発育が早いのは、昔からのことである。この頃の男子は、女子に引き摺られて、まるで親子関係のような男女の力関係であるようにさえ思える。この一番大切な時期に、そのような男女の力関係が形成され、そのことを経験するので、昨今、大人になっても女性が強いという風潮が蔓延しているのかもしれない。女性が悪いと言っているのではない。男性が、弱いということを言っているのだ。ある意味、最近の男性は、小学校高学年時期に経験した男女の力関係が肌に染み込みトラウマになっているのかもしれない。何故ならば、多くの場合、担任の教師自体も女性であり、女生徒と女性教師の間での女同士の確執を、幼い男子生徒達が目の当たりにしてしまっているからではないか。

 話が少々脇道に逸れたが、教育ということも昔のように単純ではない。非常に複雑化し、多様化している。社会自体が非常に複雑化し、多様化している現状、子供達にとっては、誘惑も、迷いも、心配事も、昔より格段に多くなっている。同性でなければ相談できないこともあるだろう。また、逆に、異性でなければ相談できないこともあるかもしれない。同性教師でなければ気付かぬことも、また、異性教師でなければ気付かぬことも多々はるはずだ。世の中は、表向き平和になった。しかし、内面的には、非常に複雑化し、思い悩むことも多くなった。このような時代だからこそ、本来、男性教師も、女性教師も、教育現場に同じ比率でいてくれることが、子供達にとっての幸せではなかろうか。世の中の男性諸君に、もっともっと頑張って頂きたい。
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by seizaikai_club | 2006-08-22 15:40 | 教育

教育現場に新しい風を吹き込む勇気ある改革を実践してきた東京都品川区の高橋久二区長が他界

教育現場に新しい風を吹き込む勇気ある改革を実践してきた
東京都品川区の高橋久二区長が他界
2006年8月21日

 東京都品川区の高橋久二区長が、周囲に惜しまれつつ胃癌との闘病の末、77歳にして志半ばで他界された。区長として五期目の職務を遂行している最中の訃報であった。闘病生活を入院先の病院で続けながら、病室で最後の最後まで執務を続けていたという。

 案外知られていないが、今教育現場で起こっている改革的な事柄の多くを、この故高橋久二区長がパイオニアとして品川区で実践してきたケースが非常に多い。例えば、学区制の廃止、高齢者施設と小学校や中学校の融合ならびに共存施設の設立、小中一貫教育、挙げれば限がない。

 私も、嘗て品川区の私学PTA連合会(母の会連合会)で役職を得ていた頃、何回となく故高橋区長にお目にかかる機会を得た。「母の会連合会という名称は付いているが、これからの時代、お父さんの育児参加は必要不可欠。どうか、お父さんパワーを連合会の会長職で発揮してください」と仰った故高橋区長の言葉が、今でも脳裏に鮮明に蘇る。

 まったく驕りのない、しかし、なかなか気骨があり、頑固一徹そうに見えるのだが、考え方は非常に柔軟であった。非常に好印象であった。人に媚ない姿勢が、とっつきにくい印象を与えるのだが、何故か人の心を捉えていた。地味だが不思議な力を持たれた政治家であった。故高橋区長ほど、品川区の発展に大きな貢献をされた方はいないであろう。いや、多分品川区にとどまることなく、特に教育現場では大きな貢献をされたように思う。品川区発進で、全国に広まった教育に関する改革的な事柄は非常に多い。良い政治家が逝かれた。心より、ご冥福をお祈りする。
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by seizaikai_club | 2006-08-22 14:10 | 教育

盧武鉉政権の暴走により国際社会で孤立する韓国

盧武鉉政権の暴走により国際社会で孤立する韓国
「戦時作戦統制権」を返還するか否かで揺れる韓国国内の微妙な情勢
2006年8月20日

 今、韓国国内が人知れず揺れている。日本のマスコミは、小泉首相の靖国参拝にともなう反日デモのニュース等の、日本国内でも反日感情を煽るような報道しかしていない。しかし、実際には、韓国国内で今大きな論争が起きている。それは、「戦時作戦統制権」をアメリカから返還してもらうか否かという問題だ。金大中前大統領の太陽政策を踏襲し、自分なりの解釈で北朝鮮寄りの政策を推し進める盧武鉉大統領。自分の政治手腕の無さを棚に上げて、仮想敵国として日本を標的にし、支持率挽回を必至に図っている。韓国には、支持率が低下したら、反日を振りかざし、親北朝鮮を唱えれば、韓国国民の支持を得られるという特殊な風潮がある。確かに、どこの国でも、仮想敵国を想定し、その仮想敵国を批判することによって、世論を高揚するという政治戦略はある。しかし、ある意味、非常に前近代的な手法であり、先進国の為すことではない。非常にレベルの低い方法論である。しかも、友好国である日本を、いくら歴史的事情があるとはいえ、仮想敵国に祭り上げて世論を惹き付ける盧武鉉政権のレベルの低さ、政治力の無さを自ら露呈しているようなものである。ドラマや映画では、勧善懲悪の方程式は常套手段であるが、現実社会、しかも政治の世界ではあまりにも軽薄過ぎる。

 さて、話を戻すことにする。耳慣れない単語であるが、「戦時作戦統制権」とは一体何であろうか。答えは簡単だ。案外、多くの人々が知らなかったり、忘れ去ってしまっていたりするが、1953年7月の休戦協定締結以来、休戦状態が継続しているだけで、朝鮮戦争は終戦を迎えていないのだ。ご承知の通り、アメリカを中心とした国連の多国籍軍は、もう既に韓国には駐留していない。今は、名目上国連軍としてのアメリカ軍のみが駐留し、韓国の安全保障を継続している。当初、冷戦の真っ只中、朝鮮戦争が勃発した直後の1950年6月に、国連決議に基づきアメリカ軍を中心とする国連軍が韓国に派兵された。その際、作戦統制権は、国連軍司令官であったマッカーサー元帥に委譲された。だが、多国籍軍であった国連軍は、時を経るとともにアメリカ軍だけになってしまった。そのような状況下、1978年11月に、米韓連合軍司令部が事実上発足し、作戦統制権は在韓米軍司令官が兼務する同連合軍司令官に委譲された。その後1994年に、平時の作戦統制権は、韓国軍に返還された。が、しかし、有事の作戦統制権は連合軍総司令官にあるまま今日に至っている。

 盧武鉉政権は、「自主国防化」を掲げ、有事の作戦統制権をも韓国軍に返還しろ、とアメリカ政府に迫っている。しかし、この盧武鉉政権の対応に多くの韓国国民が大きな不安感を抱いている。と同時に、多くの反対意見を唱えている。何故ならば、作戦統制権を完全に返還してもらうということは、アメリカ軍に頼ることなく韓国軍の装備を現状と同等レベルまで充実させなければならない、ということだからだ。

 日本は、日米安保条約に基づき強固な日米関係を防衛面でも維持している。が、しかし、その背景には、米国に頼りきるのではなく、自衛隊の装備自体も充実させ自主防衛もある程度可能なレベルにまで維持してきた歴史がある。ところが、韓国は、アメリカ軍に依存そる比率が非常に高いまま現在に至っている。在韓米軍の装備があるからこそ、韓国はある程度の安全を確保することができている。それを、後先考えず、無計画に、盧武鉉政権は「有事の戦時作戦統制権」をも返還するようアメリカに働きかけているのだ。アメリカにとっては、韓国がそのように望むのであれば、アメリカ軍の負担は大きく軽減されるので願ってもいないことである。実際には、北朝鮮という脅威が朝鮮半島にある以上、そうは言ってもアメリカは韓国から完全に手を引くということはできないのが現実ではあるが。

 このような盧武鉉政権の対応を見聞していると、いかにも自ら丸腰になって北朝鮮に、「朝鮮半島を統一してください」と言っているようにさえ思えてしまう。今、アメリカにとっても、東アジア情勢において、金正日以上に頭の痛い問題は盧武鉉大統領である。昨年10月にソウルで行われた米韓安保協議の席で、基本的にはラムズフェルド米国防長官は、韓国側の提案である2012年の返還目標を3年前倒しして、韓国政府の望みどおり戦時作戦統制権を2009年に委譲する旨を伝えたという。ところが、肝心の韓国国民の中から反対の声が上がった。歴代の国防相経験者17人と軍の幹部やOBらの多くが、「作戦統制権の返還は、国会で慎重に議論するべき問題である」という声明を急遽発表した。防衛の一線に携わった人々が、このような声明を発表した背景には複雑な問題がある。それは、この問題が国防全般にわたる問題であるからだ。

 韓国に行ったことのある人ならば気付いたはずだが、韓国という国は未だ籠の中の国家である。どういう意味かというと、38度線は勿論、海岸線も、金網と有刺鉄線で囲まれ、M16を装備した兵隊が、四六時中監視している国である。即ち、今は休戦状態ではあるが、未だ前線なのである。このような状況下、盧武鉉大統領が安易に推し進めるように、形式的であったとしても統制権を完全に移管されてしまうということは、その瞬間より韓国は丸腰に近い状態になってしまうということを意味している。それを、米軍が駐留している現状と同じようなレベルまで韓国軍の装備を充実させるには、とてもではないが2009年では間に合わない。何故ならば、韓国軍の装備充実には、時間だけではなく巨額な予算も必要になるからだ。当然のことながら、今は米軍に頼りきっている偵察衛星も、空中警戒管制機も、イージス艦も、全て自前で揃えなければならない。とてもではないが、2009年までに完全な状態にすることはできない。実際の朝鮮半島情勢を、客観的な視点で見れば、現状非常に緊張した状態にある。盧武鉉大統領は根拠のない親北朝鮮を露にしているが、実際には、この数年は非常に緊張した危ない時期である。北朝鮮が崩壊する可能性だって皆無とは言えない。そうなれば、最後に何をしでかすかわからないし、難民問題だって浮上することになるであろう。このような時期に、このような戦時作戦統制権の返還をアメリカ軍に要請するということ事体、正気の沙汰ではない。というか、大袈裟に聞こえるかもしれないが、やはり盧武鉉大統領は、金正日の手先でしかないと思えてしまう。

 日本のマスコミは、何故か反日的なところばかりを日本で報道している。が、しかし、必ずしも反日感情が韓国国民の全てではない。この戦時作戦統制権返還の問題に関し、韓国国民の過半数が反対している。それどころか、盧武鉉政権のあらゆる対応に対しても批判の声が大きくなってきている。その証拠に、盧武鉉大統領の支持率は韓国史上最低を記録した。確かに、反日を声高に叫ぶことで、多くの韓国国民が痛快感を覚えるのは間違いない。それは、過去の歴史的背景や戦後為された反日教育に起因する。だからといって、そのような反日感情が全てではない。そのような表面上の感情と現実的感情の間にギャップがあるところに、日韓関係の複雑さ、難しさがあるのかもしれない。いずれにしても、小泉首相が靖国を参拝したことだけを取り上げ首脳会談を拒絶し、日韓関係の将来性を断ち切ろうとするような、政治家としての意識レベルの低い盧武鉉が大統領を続けているところに、韓国の悲劇があるのではなかろうか。韓国という国は、素晴らしい可能性や将来性を秘めているにもかかわらず。民度に比例した韓国民の意識のより一層の向上が望まれる。
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by seizaikai_club | 2006-08-20 19:43 | 朝鮮半島情勢

貝殻島近海での銃撃拿捕事件の背景にはロシアの体制強化とロシア通商代表部による報復の思惑

貝殻島近海での銃撃拿捕事件の背景には
ロシアの体制強化とロシア通商代表部による報復の思惑
最大の国益である領土問題を等閑にした戦後政治に於ける日本政府の怠慢の結果
2006年8月19日

 北方領土・貝殻島付近で16日朝、根室のカニかご漁船がロシア国境警備庁に銃撃・拿捕された。その際、銃撃により、日本漁船の乗組員1人が死亡した。拿捕に伴う銃撃で死者が出たのは1956年以来半世紀ぶりのことである。海上保安庁をはじめ日本政府ならびに関係機関や関係者は、「拿捕で銃撃、死亡者まででるとは」と大きな衝撃を受けた。同庁は、即座に「根室沖被拿捕事案対策室」を設置し対応に追われた。

 過去にも、報道された案件されない案件を含め、北方領土地域での拿捕や威嚇銃撃は1500件を遥かに超える件数ある。しかし、日本では案外知られていなかったり、報道されても身近なことでないため忘れ去られてしまったりということの繰り返しで、戦後61年が過ぎ去った。

 しかし、本来、領土問題は、国にとって一番大切な国益に関する問題である。にもかかわらず、日本ほど領土問題を等閑にしてきた国は、地球上他に例を見ない。他国の人々から見ると、非常に平和ボケしているように見えるようである。北方領土だけではなく、尖閣諸島問題や竹島問題をはじめ、各種領土問題は案外日本の中では注目されない。だが、本来は、色々な意味で非常に大きな問題であり、最優先されるべき問題であるはずなのだ。ところが、戦後、外務省の中には敗戦国という劣等感が蔓延し、近隣諸国に領土問題で強い主張をできなかったという事実がある。しかし、そのことを外務省職員は絶対に認めようとしない。

 中国や韓国が、尖閣や竹島の問題で色々と声を上げる。マスコミなども、小さく報道はする。しかし、国民の興味も、あまり尖閣や竹島の問題の方へは向かない。マスメディアも数字のとれないこのような問題は、あまり報道もしない。それどころか、中国や韓国の肩ばかりもち、日中関係や日韓関係が国交断絶にでもなってしまうかのような大袈裟な報道ばかりを繰り返し、それらの責任は時の政府や政治家にあるように吹聴する。だが、世界中を冷静な目で見回し見聞すれば、どの国も隣国とは領土問題で小競り合いを繰り返していることがわかる。何も、日中と日韓や日露が特別なわけではない。日本政府の戦後61年の領土問題に対する及び腰な姿勢は批判する必要はあるが、だからと言って日本政府の対応が悪いからだけで中国や韓国やロシアが騒いでいるのではない。領土の問題は、領海権や漁業権など死活問題にもつながり、軍事戦略上も非常に重要な問題なので、どこの国もあのように騒ぎ続けるのだ。ある意味、領土問題で騒ぐのは当たり前のことなのである。日本が、騒がな過ぎなのである。それは、外務省職員の敗戦国意識による劣等感に起因するところが大きい。

 今回の拿捕・銃撃事件に対し、鈴木宗男衆議院議員が外務省を強く批判した。批判している内容はもっともなものである。以下の通りである。「日本人が殺され、国益が侵害されているときは、官僚ではなく閣僚自らが先方に赴き、直接会って抗議するのが国家の威信というものだ。外務省は、この5年間、領土問題などでどれだけの実績を上げたのか。いかなる理由があっても丸腰の船員を撃ってはならないのは当たり前。やりすぎであることは、明白だ」。まったくその通りである。如何なる理由があろうが、日本国民が一人射殺されているのである。拿捕された日本国民と射殺された日本国民の遺体を、閣僚が自ら引き取りに赴き抗議をするべきである。

 案外知られていないが、北海道は鈴木宗男衆議院議員の地盤であり、以前マスコミでも騒がれたように俗称ムネオ・ハウスなる親善施設も国後島に建てたりもしている。実際、今回の被害者である拿捕された漁師達は、このムネオ・ハウスに拘束されているという。実は、拿捕事件は後を絶たず、地元である鈴木宗男衆議院議員はその度ごとに解決に奔走していた。そのような経験から、拿捕された日本人漁師の身柄の安全を確保する目的でムネオ・ハウスは設立されたという経緯があるのだ。何だか、まるで私利私欲で為したように、当時マスコミによって報道されていたが、その実態が奇しくも今回の事件でハッキリしたのではないか。一事が万事、日本のマスコミとはこういう調子なのである。

 少々話が逸れたので戻す。そもそも、何故、50年ぶりに死者が出るほど強硬な対応をロシア国境警備庁はしたのであろうか。貝殻島は日本の目と鼻の先である。散歩をしていた人が、当時射撃音を聞いたほどに日本に近い。銃口の向き具合では日本に銃弾が着弾する可能性だってある距離だ。本来、日本の領土であり領海である。にもかかわらず、何故あのように強硬な対応をしたのか。

 貝殻島周辺では、カニかご漁で日本側とロシア側が、長年緊張した状態を続けていた。日本側は日本領土としており、ロシア側はロシア領土としているので、お互いに協定が結ばれカニは獲ってはいけないことになっていた。そうはいっても、実際には日本の領土である。日本側の漁師達は頻繁にカニかご漁を繰り返していた。しかし、銃殺されるような前例はなかった。ところが、今回は今までとはちょっと違った。何故であろうか。

 理由は二つある。第一番目の理由は、ロシアのプーチン大統領が、ここにきて嘗てのソ連のように強いロシアに回帰しようという方針を打ち出したからだ。体制強化と新たなる外交政策である。その背景には、ここ暫く混迷を極めていたロシア経済が上向きに転じたということもある。また、中国、イラン、北朝鮮等との新たなる関係の構築が為されつつあることにも起因する。9.11同時多発テロ以来、アメリカはテロとの戦争に翻弄されている。その結果、エンドレスな宗教戦争にも似た様相になってきた。実際には、エネルギーを介した宗教戦争である。このような状況下、プーチン大統領は、ロシアの新たなる立ち回り方、即ち「強いロシアの回帰」という結論に達したのだ。当然のことながら、嘗てのソ連のような軍事力でも強いロシアをプーチンは夢見ているのだ。もともと、プーチンは、親の代からKGBの草の根的に世界の要所に潜伏するスパイ職員であり、ドイツに生まれ育ち勤務していた。その間、武道を極め、スパイ活動をしている頃のプーチンは、「氷の男」と呼ばれていたほど冷酷で冷静な職員であったと聞き及ぶ。彼は、大統領就任以来、強いロシアを望み続けてきたのである。そして、それが現実となりつつある。ここ数ヶ月で、ロシアでは関係各所に対し、あらゆる場面で今まで以上に強硬姿勢を貫く旨を伝達していた。その結果、今回の事件でも、ロシア国境警備庁は強い態度で臨んだのだ。

 第二番目に、今月初旬に報道された、ロシア通商代表部が介在した、ニコン元社員からの先端技術提供事件へ対しての報復措置ということである。そのことが、隠密裏にロシア国境警備庁に、プーチン大統領から伝えられていた。そのような状況下、ロシア国境警備庁は、一番日本人漁師達が頻繁にロシアの主張する領海を侵犯する可能性の高い貝殻島近海で、虎視眈々とその時を待っていたのである。そして、あの拿捕・銃撃事件が起きたのだ。勿論、そのことを証明することはできない。当然のことながら、表向きは銃撃を指示したロシア国境警備庁の担当官は処分されるであろう。しかし、モスクワでは、後に英雄として讃えられるはずだ。今回の事件は、表向きは、今までも繰り返されてきた拿捕事件だが、本質は日本政府へ対しての政治的な威嚇行為である。間違いない。

 今までも、ロシア通商代表部によるスパイ活動は、何度となく繰り返され、時々事件として発覚していた。スパイ法のない日本では、その度ごとに情報漏洩をした日本人が日本の公安当局によって逮捕されるという繰り返しできた。同様の経済スパイ事件は、案外に頻繁におきており、今回の事件の前は、昨年ヤマハの社員によるリモコン・ヘリコプターに関する技術が北朝鮮関係者へ流されたという事件であり、記憶に新しいはずだ。

 このような事件が、後を絶たない背景には、日本の企業が技術者を大切に扱っていないという環境的問題がある。発光ダイオードーを開発した博士が訴訟を起こした案件は、記憶に新しい。日本の企業は、給料だけで技術者を抱え込み、彼らが開発した案件の特許も莫大な利益も企業が独占してしまう、という世界でも類を見ない特殊な環境を当たり前のごとく温存している。その結果、多くの優秀な技術者が冷や飯を食わされ、不満を抱き、甘い誘いにのってしまうのだ。ある意味、日本企業がこのような企業環境を温存すること事体、国益に反する行為である。その結果が、先端技術漏洩ということになってしまうのだから。

 案外知られていないが、ロシアによる日本でのスパイ活動の拠点は、ロシア大使館ではない。港区高輪4丁目、品川プリンス・ホテルの裏駐車場入り口の目の前、ユニセフ本部ビル隣にひっそりとたたずむ、コンクリートの高い塀で覆われる謎の建物の中なのだ。このコンクリートの塀で覆われ、スパイ映画を彷彿とさせるような特殊合金の自動開閉式門扉で守られた要塞こそが、嘗てのKGBの日本での拠点、現在のロシア通商代表部の敷地である。案外知られていないが、一本裏の住宅街の中に、やはりコンクリートの塀で囲まれた普通のマンションのような建物があり、自動開閉式の鋼鉄の門扉を開いて中に入っていく屈強なロシア人が運転する四駆の頑丈な車を目で追うと、そのまま地下の駐車場に入っていくのがわかる。その地下駐車場は、表の通商代表部と繋がっているのだ。この出入り口は、毎日、午後5時近くになると出入りが激しくなる。一方通行の細い住宅街の道に面した門扉を、車中からリモコンで開きスパイ活動をしていると思しきロシア人が、車もろとも中に消えていく様子は、近隣の住民なら誰でも目にしている光景である。

 この地域は、人知れず小さな大使館があったり、ホテルが何軒も建っていたりする高級住宅街である。近隣の住人は、ソニー村と呼んでいる。何故なら、ソニー発祥の地で、ソニーの本社をはじめ、このロシア通商代表部の裏表の一方通行の住宅地を走り抜ける細い道の行き着く先は、ソニー本社と関連施設の密集地である。案外知られていないが、高輪3丁目から、ソニー本社にかけての地下には、非常に早い段階で光ファイバーの太い線が配備された。東京の中でも、早くから光ファイバーが使用できた特殊な土地柄なのだ。

 ロシア通商代表部の建物の近隣には、隣のユニセフ本部、反対隣に東武ホテル、目の前が品川プリンス・ホテル裏門、東武ホテルの道の向こう側は新高輪プリンス・ホテルと高輪プリンス・ホテル、そして、衆議院議員会館とさくらタワーにパシフィック・ホテル。品川駅は新幹線も止まる。あまりにも出来すぎた環境なのである。まるで、スパイ映画だ。

 8月の初旬、高輪プリンス・ホテル周囲の道が、突然多くの警察官と機動隊で囲まれ警備状態になった。小泉首相や自民党が、よく新高輪プリンス・ホテルを使うので、その度ごとに同じような警察の配備になる。そのため、また何かプリンスであるのだな、程度にしか思わなかった。ところが、道を進んでいくと、いつもと様子が違い、小泉首相ではないことがわかった。警備の中心点はロシア通商代表部であった。裏表の、ソニーに続く道は、完全に警察によって囲まれ警備されていた。ロシア通商代表部の前にも、何台もの警察の大型バスが門を塞ぐ形で、警備を装い監視しているという体制をとっていた。飯倉のロシア大使館とまったく同じ状態である。いや、それ以上かもしれない。今までは、テロ等があったりすると警備という形で高輪のロシア通商代表部にも警備が敷かれたりしていた。だが、ロシア通商代表部からの拒絶反応でなのか、いつも直ぐに解除されていた。しかし、今回はいつもと違っていた。何故なら、アメリカから日本政府に対して、強い外圧も掛かった模様であったからだ。そんなこともあり、いつになく強い警備・監視体制になっていた。

 このような警察・公安による警備体制を目の当たりにし、ロシア通商代表部に関連して何かがあったなと思っていた。その数日後、テレビ・新聞で一斉にニコンの元技術系社員が、ミサイルのピンポイント攻撃に関連した軍事転用可能な光通信関連部品である赤外線センサーの技術を、ロシア通商代表部の35歳の部員に漏洩していたとして逮捕されたという報道が為された。報道では、元社員となっているが、実際には、この事件が発覚し逮捕されるまでは実際にニコンの社員であったわけだ。

 話が少々長くなってしまったが、このような事件があり、その直後に、この拿捕・銃撃事件が起きた。一見なんの関係もないようにも見える。関係ないのかもしれない。勘繰り過ぎかもしれない。しかし、警備体制は、事件発覚当時に比べれば縮小していたが、警察・公安によるロシア通商代表部前の警備と監視は続いていた。ところが、今回の拿捕・銃撃事件が起こった直後、ロシア通商代表部前に陣取っていた、機動隊のバスの姿はなくなった。また、見回してみても、目に付くところに機動隊や警察官、公安の姿は見受けられなくなった。多分、何処か気付かれない近隣のマンションやホテルの一室からの監視に切り替えたのであろう。一体何故なのであろうか? それは、ロシア側よりの強い抗議によるからであろう。そして、その抗議を受け入れなかった日本へ対しての、威嚇が今回の拿捕・銃撃事件の真相だったのではないか。謎が謎をよぶ、それが各国による諜報活動というものだ。
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by seizaikai_club | 2006-08-19 14:55 | 領土問題

靖国問題の解決策:靖国存続霊璽簿廃止

靖国問題の解決策:靖国存続霊璽簿廃止 
2006年8月18日

 靖国の問題は、戦後61年間、大切な問題でありながら、多くの日本人が等閑にしてきてしまった問題の一つである。ただ、一つだけ明確なことは、靖国の問題は、現世の私達の問題ではなく、靖国に集う英霊達の問題であり、俗世の私達が本来とやかく言う問題ではないということだ。しかし、現実問題、靖国のことが問題になっているので、何とか解決の道を模索しなければならない。

 基本は、静かに手を合わせる、それだけで構わないことだ。ところが、後付で現世の人間の思惑がそこに加わり、非常に複雑なことになってしまっている。神官も人間だ。神殿では、神官であっても、神殿を一歩出れば俗世に生きる一人の人間であり、色々な考え方や思想を持っているのかもしれない。しかし、靖国神社が神社本庁に所属さないという形態を見てもわかるように、神社の中でも「公」の色の強い神社である。そうである以上、そこに務める神官も、本来日常に渡ってその自覚をもち生活するべきである。私的感情や思想よりも、靖国の神官としての自覚が、何よりも大切である。

 合祀だ、分祀だ、戦犯だ、何だかんだとマスコミをはじめ世間では騒いでいる。非常に俗世的であり、靖国に集う英霊達は悲しく思っているように思える。次元がまったく違うのではないか。

 ならば、そのようなことが起こってしまった原因を排除すればよい。それは、一部の人間の思惑で為された「祭神名票」に基づく「霊璽簿」の作成ということではないか。それぞれの宗教団体に、それぞれの定義や方法論がある。それを否定するつもりはない。しかし、靖国が「公」の色の強い神社である以上、また、そこに祭られる御霊のことを最優先するということであれば、妨げになる「霊璽簿」を廃止してもよいのではないか。

 例え、霊璽簿がなくとも、神は神、天は全てをお見通しのはずだ。「霊璽簿」なるもの自体が、非常に現世の人間的発想でしかない。私の親しくするある神社では、このような「霊璽簿」はない。その代わり一人一人の御霊が宿る仏教の位牌に相当するような木製の柱を行満堂という所に祀ってある。当然のことながら、本殿には天照大神が祀られている。この神社は新興宗教ではなく、一の宮であり、かなり大きな有名な神社である。

 このように、同じ神社神道においても、祀り方も異なる。よって、この祀り方でなければ、有り得ないということはないのではないか。大体、宗教というのは、人の心の持ち様の問題であり、形は二の次であるはずだ。にもかかわらず、融通が利かない形に固執する考え方をすること自体に、大きな問題がある。

 昭和天皇のメモのリークは許せぬことである。あのメモの信憑性にも大きな疑問を感じる。が、しかし、多分昭和天皇が仰りたかったことも、そこのところではないかと私は思う。それまで、上手く対処していたものを、特定の神官の個人的な思想に基づき昭和天皇をはじめ多くの関係者を蔑ろにし、早まった処置をしたが故に、昭和天皇は不満を漏らしたのではないか。

 大体が、これらの俗世的問題が生じる問題は、霊璽簿にある。霊璽簿がなければ、合祀だ、分祀だということも言えぬ。また、太平洋戦争以前はいざ知らず、本来であれば戦場での戦死者だけでなく、被災者も祀られて当然である。戦場に赴いた人々は、国を思い、家族を思い、愛する人々の名前を叫び、「天皇陛下万歳」と叫びながら、尊い命を落としていった。しかし、日本に残された人々も、戦地に赴いた愛する人々のことを思い、竹槍をかざし、子供達や年寄り達を守りながら、多くの人々が戦火に晒され死んでいった。日本国内に残り、空襲を受けながらも国を守り被災した人々も、戦場での戦死と変わりはない。

 であるならば、そのような被爆者や被災者の御霊も一緒に靖国にお祀りしても何の問題もないはずだ。そのためにも、現在の靖国のように霊璽簿を基にした形ではなく、「無名戦没者を祀る靖国」という形にするべきではないか。そうすれば、A級戦犯の合祀がどうのこうの、分祀しろの、何だかんだととやかく言われる筋合いもなくなる。

 ただ、いくつかの問題点も残る。それは、英霊達の問題とは言っても、やはり現世に存在する靖国の経済的な問題の解決策、それと鳥居の問題だ。諸外国の拒絶反応の一つに鳥居がある。鳥居が、かなり日本軍国主義の象徴的な存在になってしまっているという事実もある。鳥居に対して拒絶反応を示す外国人は、非常に多い。しかし、靖国から鳥居がなくなれば、何か靖国ではなくなるような気さえしてしまう。それが、日本人だ。非常に難しい問題である。

 日本は、日本として、日本人としての主張をもっとするべきだ。中国人も韓国人も、大陸人である。こちらがおとなしくしていれば、いくらでも調子にのって声を上げる。しかし、こちらも声だかに反論をすれば、それなりに解決策も見えてくるはずだ。日本は、もっと自国の主張をすべきである。私は、そう思う。
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by seizaikai_club | 2006-08-18 13:53 | 靖国神社参拝問題

靖国問題の解決策は唯一:静かに手を合わせること

靖国問題の解決策は唯一:静かに手を合わせること
靖国の問題は国のために命を落とした先人達の問題
騒ぎ立て問題化しているのは道徳心の欠片もない隣国と反対勢力
2006年8月15日

 本日午前7時半過ぎ、小泉首相が靖国神社を参拝された。評価するに値する行為である。国のために命を落とした先人のために手を合わせることに、何の問題があるのであろうか? そのことに異議を唱え、騒ぎ立てる反対派の人々やマスコミの行為には呆れ返る。当たり前のことが、当たり前として為せないことほど悲しむべきことはない。そんな国に成り下がってしまった日本を憂うのは、私だけではないはずだ。一番悲しく思っているのは、国のために尊い命を落としていった英霊達に違いない。

 小泉首相の靖国参拝は評価する。しかし、敢えて言うならば、首相に就任した際、靖国参拝を公約する必要があったのか否かということである。そして、公約したのであれば、誰が何と言おうと、この5年間、怯むことなく8月15日に参拝し続けて欲しかった。政治家が靖国を参拝するだけで、自国の思惑に基づき理不尽な主張を繰り返す隣国の尻馬に乗って騒ぎ立てる日本人の風潮を改革するべく、小泉首相は靖国参拝も公約したのであろうと思う。当たり前のことが、当たり前として為せない、そんな国に日本をしたくないという思いからであることは想像できる。

 靖国問題に関しては、おかしなことが多々ある。本日のぶら下がり記者会見で小泉首相が言っていた通り、マスコミや反対派は「政教分離」がどうのこうのと捲くし立てる。が、しかし、小泉首相をはじめ歴代の首相や閣僚達が伊勢神宮に参拝しても、参拝した事実だけしか報道しない。実際には、神道形式にのっとった参拝をしているが、そのことを取沙汰するマスコミも反対派も、この戦後61年間で皆無に近い。伊勢神宮での参拝は「政教分離」に抵触せず、何故靖国神社参拝だけが、こんなにも問題になるのか? 反対派やマスコミに聞いてみたい。多分、A級戦犯が合祀されているからだ、というような答えが返ってくるであろう。それは、しかし、答えにはなっていない。その問題と、靖国や伊勢神宮参拝の問題では、本質が違う。実際には、歴史や日本の文化を深く学習もせず、理解もしていない記者や反対派の人間達が、あたかも全てを理解したかのように騒ぎ立てている証だ。非常に大きな問題である。

 大体、彼らが騒ぎ立てて喜ぶのは、中国や韓国だけである。自国の思惑で理不尽な主張を繰り返す隣国を喜ばせることが、何故国益で、国のために尊い命を落とした先人に手を合わせることが、何故国益に反するというのか? 理解に苦しむ。

 本来、こういうことは、政治的に利用する問題ではなく、静かに手を合わせ、先人に感謝の念を抱けばよいことである。それを、何時の頃からか、政治的に取沙汰するようになったから、このように問題が複雑化するのである。ましてや、総裁選で靖国参拝問題まで論点にすることは、以ての外で論外だ。確かに、学問的に言えば、靖国神社には歴史的な意味があるのかもしれない。しかし、それは別問題である。先人の御霊に手を合わせるという行為は、そういう俗世的な発想とは別次元のことである。大体、本来、靖国とは、我々現世に生きている人間のためにあるのではなく、靖国で再会することを信じて国のために散っていった先人達のためにあるはずだ。それを、亡くなった先人達の心や思いを踏みにじり、ああでもない、こうでもない、ととやかく言うこと自体が間違っている。

 個人が参拝する分には問題がない。しかし、一国の総理が参拝するから問題なのだ、と多くのマスコミや反対派の人間は言う。だが、本当にそうであろうか。三権の長に、「私」はない。第一級の公人である以上、24時間365日が「公」である。よって、小泉首相に、この参拝は公人としての参拝か私人としての参拝か、などという愚問を浴びせかける記者達の感性こそ疑わざるを得ない。記者としての資格ゼロである。もっと、まともな質問をするべきである。とってつけたような質問を繰り返し、自分が所属する会社への自己アピールとしか聞こえない。愚かなことである。総理が参拝するということは、私的な部分や気持で参拝したとしても、公人であるに決まっている。だが、公人である総理だからこそ、小泉首相は靖国に参拝したのだと私は思う。私人である、小泉純一郎が靖国に参拝することは当たり前である。総理が参拝するからこそ、意味があるのだ。どういう意味かといえば、それは多くの国民が忘れかけている日本人の美徳、道徳心を喚起するという大きな意味だ。先人を敬い、先人を尊ぶ。そして、亡くなった先人に手を合わせるということは、特別なことではなく当たり前のことである。そんな当たり前のことが、当たり前として為されなくなり、為しにくい日本になってしまったことを憂いてのことであるはずだ。本来であれば、如何なる理由があろうとも、形式はどのようであろうが、天皇陛下に手を合わせて頂ければ、何も問題はないはずである。それが実現できないというところに、悲しむべき現実がある。

 一部の学者やコメンテーター達が、自らの歴史認識を明確にしてから参拝するべきだとか、小泉首相の靖国参拝は外交ゲームだとか、ということをテレビや新聞を通じ声高に言っている。確かに、靖国問題や歴史問題には、それぞれの当事国の歴史観やら、外交問題やら、色々な問題がある。しかし、そのことと靖国参拝ということを一緒くたにするべきではない。何故なら、国のために亡くなった先人に対して手を合わせるという行為は、そのような俗界的なことではないからだ。純粋に手を合わせ感謝の念を抱き、恒久の平和を願う。それだけのことである。理屈ではない。それこそ、「心」の問題なのである。道徳心の範疇であり、政治的問題でも、学術的問題でも、ましてや国際的問題でもない。外交ゲームだとか、国益に反するとか、理屈をこねくり回す諸氏は、まず知覧の特攻会館を観覧してきてからモノを言って頂きたい。あれが、全てではないであろう。しかし、あそこには戦争が如何に悲惨なモノであるかを表す事実が、偏向されることなく展示されている。これらの問題を議論していると、いつも知覧の特攻会館のことを思い出し、涙が止まらなくなり言葉を失ってしまう。あそこを観覧して、涙を流さぬ人は一人もいないはずである。理屈ではない事実が、人々の涙を誘う。あそこには、何人の思惑も演出もない。戦争の悲惨、英霊の純粋なる思いが、有りの儘に展示されている。

 確かに、学術的な見地や、歴史的見地、国際関係学的見地からすれば、色々な問題がある。しかし、歴史には、裏表がある。表裏一体で歴史は成り立っている。そして、事実は一つだが、真実は当事者の数だけある。当事者の多くが存命していない今、全てを解明することは非常に難しい。一部の当事者による真実だけを参考にしても、歴史の本質に迫ることはできない。全ての当事者がそれぞれ抱く真実を全て見聞して、初めて歴史の本質を見極め、事実を正しく受け止めることができる。ましてや、それぞれの国には、それぞれの立場がある。全ての関係国が、同じ歴史観に立つということは、有り得ないことだ。そのことは、どの国も承知している。承知の上で、自国の都合での歴史観を繰り返しているのである。しかし、そのことは何人も批判できない。また、批判するべきでもない。ただ、日本人は、日本人としての立場に立ち、自国の国益を考えて、日本としての歴史観を構築すればよいのである。隣国がこういうからどうだとか、というような次元の問題ではない。ただ、これだけは言える、靖国問題に関しても、歴史問題に関しても、如何なる理由があろうとも、他国に干渉されるべき問題ではない。日本の国内で、日本人が議論を戦わせて、結論を導き出す努力をすればよい問題である。

 大体、漠然と反対している人々は、どれだけ歴史のこと、政治のことを勉強しているのであろうか。非常に大きな疑問を感じる。マスコミも、ただ、小泉首相が靖国を参拝するから、中国や韓国の近隣諸国との関係が悪化するとばかり声だかに報道する。しかし、この5年間の小泉首相の中国や韓国に対する政治的対応を検証してみれば、中国や韓国の主張が如何に理不尽かは一目瞭然である。そして、その尻馬に乗って騒ぎ立てる日本の財界やマスコミ、そして反対派の主張が、いかに理不尽かということも一目瞭然である。靖国参拝問題以外の問題は、全て中国や韓国の主張を受け入れ、また理解を得ながら外交努力を重ね良い結果を出しているではないか。にもかかわらず、そのようなことは一つも報道されず、靖国の問題ばかりが報道されるので、国民も皆、まるで中国と韓国とは、国交断絶にでもなってしまうかに思ってしまっている。非常に偏向した報道により扇動された偏向した意見が、世の中に蔓延してしまっている。

 小泉首相の言い分ではないが、一つの意見、即ち靖国問題で日本が言うことをきかないからといって、全てを拒絶するような対応自体が非常に理不尽であり、多様化する国際社会に於いて、配慮の欠落としか見えない。大人気ない対応である。にもかかわらず、小泉首相ばかりが責められること自体に、不自然さを感じる。しかも、自国のマスコミや財界が批判するとは、もっての他であり、他国では有り得ないことである。如何に日本が平和ボケしているかを顕著に表している。

 日本が常任理事国入りしようとした際、中国も韓国も賛成に手を挙げなかった、だからといって小泉首相率いる日本は、中国や韓国を批判したか。また、彼らを全て拒絶するような行動をとったか。答えは、ノーである。そんなことはしていない。北朝鮮がミサイルを撃ち込んできた時に、国連での採決の際も同じことが言える。当初彼らは、手を挙げなかった。しかし、日本は、だからと言って中国やロシアとの話し合いを拒絶したか。この答えも、ノーである。日本政府、小泉首相がとった態度こそが、国際社会に於いても良識ある大人の対応である。中国や韓国が靖国問題を引き合いにだして行っている行為こそが、大人気ない行為であり、日本への内政干渉でしかないことは、第三国から見れば一目瞭然の事実だ。ただ、中国の力が急激に増大しているので、アジア諸国の多くは、将来を見据えて、中国との関係を大切にせんがために熟慮した行動をとっているだけのことである。それを、まるで日本だけが、アジアで孤立してしまっているような、中国の側に立ったような報道を繰り返す日本の報道機関の良識には大きな疑問を感じる。だからと言って、アジア諸国を蔑ろにしろと言っているのではない。アメリカとの日米同盟を大切に温存し発展させつつ、アジアとの国交も発展させていかなければ、アメリカにとっての日本の魅力も半減してしまうことは目に見えている。そうかといって、アメリカや近隣アジア諸国に阿る必要は全くない。アメリカにとって日本は、軍事戦略上、また経済戦略上、最重要国であることはこれからも変わりない。また、日本にとってのアメリカも、軍事戦略上、また経済戦略上、最重要国であることも変わらない。そして、日本の近隣諸国も、アジアが発展していき、グローバル化が急速に進む世界情勢にあって、日本にとって大切なライバルであり同盟国であるべきであることも間違いない。偏ることなく中庸を保つことが、アジアで、世界で、日本が取るべき道であろう。スイスのような永世中立国で有り得るのは、地球上で唯一の被爆国である日本の権利であるはずだ。それには、積極的な主張ができる国に成長しなければ、ということが日本に課せられた今後の課題であろう。

 韓国は、小泉首相の靖国参拝を受け、小泉はもう過去の人であり、次期首相が靖国参拝するか否かで今後の韓日関係の行方は決まる、というようなコメントを発表した。この外交感覚、国際感覚こそがおかしい。にもかかわらず、日本のマスコミは、そのような韓国や中国の反応ばかりを、非常に大きく取り上げ、あたかも小泉首相がこの5年間で国際社会での日本の立場を失墜させたかのごとく報道している。それどころか、中国の日本大使館前に抗議デモを断行した中国の活動家のインタビューまでをも報道した。たった30人で行われたデモを、まるで中国人全てが反日感情を抱き、それが大きな動きになるかのごとく報道していた。非常に大きな違和感を覚える。まるで、戦前、戦中の統制された報道機関のようだ。一つ違うところは、戦前、戦中は軍部に報道各社は統制されていたが、今のマスコミは財界に統制されているように見えるのは、私だけではないはずだ。

 本来、靖国問題のような事柄に於いては、マスコミの果たす役目が大きいはずである。マスコミが、偏向しない報道姿勢でこの問題を報道し続けてくれば、思惑で理不尽な主張を繰り返す隣国に付け入られることもなかったはずだ。純粋に靖国問題や極東軍事裁判の問題や戦犯の問題なども、他国からとやかく言われることもなく自国内で総括することができたであろう。しかし、そうできなかった責任の一旦は、マスコミにあると言っても過言ではない。正しく、偏ることなく歴史的事実を検証し、当事者の数だけある真実の解れた糸を丹念に手繰り寄せ紡いでこそ、昭和史の本質を後世に残すことができたはずだ。ワイドショー的に数字を追うばかりではなく、損得を度外視して一石を投じるような気概ある報道姿勢が損なわれてきたからこそ、政治や財界の思い通りの戦後61年が過ぎ去ってしまったのではないか。嘗ては、気骨ある政治家も、筋金入りの財界人も、勇気あるジャーナリストも日本には存在した。しかし、昨今、そのような大きな器の人々を見かけなくなってしまった。悲しむべきことである。

 目の前の我欲に溺れ、国を憂うなどということをしなくなってしまった日本人。今だからこそ、国のために尊い命を落とした先人達に手を合わせるべきなのではないか。「先憂後楽」私の好きな言葉である。しかし、今の日本は、「先楽後楽」煩悩に溺れる国にしか見えない。日本の将来を憂うのは、私だけではないはずだ。
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by seizaikai_club | 2006-08-15 23:59 | 靖国神社参拝問題

「政治をもっと身近に」をスローガンにして、日本人にもっと「愛国心」を喚起すべく語る。
by seizaikai_club
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政財界倶楽部代表  恩田将葉
 「政治をもっと身近に」をスローガンに、一人でも多くの日本国民が政治に関心を持ち、参加してくれるよう、執筆活動、出版活動等を通じ「愛国心」啓蒙活動をしている。国際化が進む世界の中で、日本の政治も若者の手で変革しなければならない!!

 政財界倶楽部代表恩田将葉は、 アメリカ合衆国カリフォルニア州で約9年間生活。その間、サン・フランシスコ州立大学(San Francisco State University, SFSU)国際関係学部で国際関係学と政治を学び、朝鮮半島問題専攻で卒業。その後、暫くアメリカで現地法人の会社(People Intertrade, Inc.)を経営した後帰国。帰国後は、記者と編集者を経て出版社である株式会社ぴいぷる社と株式会社政財界出版社、そして、夕刊紙「内外タイムス」を発行する株式会社内外タイムス社の社長に就任。活字業界一筋に生きてきた。現在は、経営から一歩引き、国際情勢ならびに政治を中心に、ジャンルを問わず執筆活動を継続中。プロの文士として、随筆、小説、脚本等あらゆる分野で執筆活動を展開し、文章を綴ることを天職としている。そのかたわら、日本に、嘗てのごとく「愛国人」を増やすべく、「政治をもっと身近に」をスローガンに、自ら「政財界倶楽部」を運営している。

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