政財界倶楽部         (恩田将葉見聞録)

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カテゴリ:社会( 14 )

亀岡暴走事件の判決に思うこと

求刑下回る判決、遺族「納得できない」 亀岡の暴走事件
2013年2月20日

この判決をニュースで知った時、色々な思いが押し寄せた。確かに、被害者遺族の訴えが過剰に報道されていた気はしていた。だが、こういう結果がでてみると、被害者遺族の過剰な訴えは間違いでなかった気がしてくる。

まず、そもそも、加害者が無免許運転であったことをなおざりにして為された判決に、大いなる疑問を感じざるを得ない。運転免許制度自体を否定する判決ではないか。無免許でも、運転能力があったとは、何をもって裁判官は判断したのか。例えそうだとしても、運転免許をとらずに運転していたことは、運転者として不適格であることは明らかだ。どうやっても理解できない判決だ。

同時に、加害者が反省していると裁判官は言っているが、何をもって加害者が反省していると判断するのか。判決が出ている前から、本当に心の底から反省するということを、第三者である他人が、裁判官も含め理解できるはずがない。刑期を軽くするために、反省しているとは考えられたないのか。これも大きな疑問を感じる。

本来であれば、求刑通りの判決を求刑し、その上で、加害者の受刑態度を情状酌量して、その後に、恩赦減刑しても遅くない。それでいて初めて、本当に反省しているか否か見極めることができるはずであり、それで遅くはない。

これだけの罪なき人々を死なせてしまったのだ。これぐらいのバツを受けても当然な気がする。無免許で、遊び回っていて、疲れたから居眠り運転をして、通学中の親子たちを複数死に至らしめたということは、例え免許があったとしても、許されるべきことではない。例え、加害者が未成年者だとしても、しかも複数の同乗者があっとのだから、同乗した彼らの罪も思い。

彼らにとっては、この事件を起こして、気づきを得ることができ改心するかもしれない。腑に落ちて更生するかもしれない。だが、被害者たちがそのために命を奪われる道理は何もない。そのことを裁判官は理解し、判決を出すべきであった。

現在の司法制度の問題を露呈した判決であるように私は強く思った。この上は、立法府である国会で、この事件をキッカケに法改正を為すべきであると強く訴えたい。この後は、政治家ので場である。是非とも、この判決を無駄にし、被害者たちの魂が浮かばれるよう強く願う。
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by seizaikai_club | 2013-02-20 11:16 | 社会

被災地見聞録

被災地見聞録
2011年3月24日

 昨日早朝出発で、被災地取材にいき未明に帰宅した。ロスの大地震は自ら経験し阪神大震災ならびにサンフランシスコ大地震は翌日取材で入った経験があった。しかし、今回の震災は酷さがまったく違った。涙が止まらなかった。地震も怖い。だが、津波は想像を絶する怖さであることを実感させられた。一言でいえば、言葉は悪いが震災被災地というよりも、戦地のようであった。爆撃を受けたような様相である。津波を受けていない地区と、津波を受けた地区では、まったく状況が違う。また原発事故、これは大変な経済的打撃を福島県、ならびに日本に与えるなということを思いつつ帰京した。

 昔東電の総務の原発問題マスコミ対策の仕事を経験をしたことがり、昨日も私の取材対象は福島原発に出入りする業者や特殊技術をもった下請け企業への取材であった。最初の地震直後、我が家では神経質するぎると言われたが、全ての換気扇をビニールで目張りしたりした。それは、原発事故が起こった場合のことを、嘗て東電幹部に聞いたことがあったからだ。昨日受けた印象では決して過剰反応ではないと思った。最初の地震直後の原発の状態は、思っていた通り非常に危機的で危険な状態であったようだ。現状、大分コントロール下になってきたようだが、3日目の最初の爆発時は、深刻な事態であったという。政府は本当のことを発表していなかったが、現場は緊迫していたとの関係者の言葉が印象的であった。現状では4号機が綱渡り状況だという。

 どれだけ危険な状態にあったかということは、空母の動きでも察知できる。アメリカ第七艦隊が総掛かりで被災地救援に当たってくれている。そのような状況下、当初空母ロナルドレーガンは、自衛隊よりも先に、福島沖16キロ地点で日本政府からの救援要請待ちをしていた。だが、翌日俄かに、16キロ地点に停泊した空母ロナルドレーガンは、福島沖80キロ地点へ後退した。このことからも、如何に緊迫していたかがわかる。このことには非常に大きな意味があるという。

 理由はこういだ。核分裂は臨界点を超えると誘発するそうだ。その危険を懸念した空母ロナルドレーガンは、安全距離とされる80キロ地点まで後退した。ちょうど、女川原発で放射能レベルが上がったという報道があった日だ。女川原発から発せられた放射能ではないとのコメントが、東北電力より発表されたことは記憶に新しい。確かに、女川原発からの放射能ではなかった。だが、あの報道の裏には、女川原発も誘発する可能性があったということを暗示していたのだ。知らぬが仏とは、よくいったものだ。そうなっていれば、恐ろしいことが起こっていに違いない。

 現状、綱渡り状態にあるのは、4号機だという。そういわれても、だからどうしたらいいのかはわからない。まあ、私たちにできることは、運を天に任せて待つしかないということかもしれない。だが、無駄になっても、傘や雨合羽を着るなど、最低限の危機管理してし過ぎということはない。後は個人の判断だ。

 こういう状況下、一番私が危惧したことは、福島県をはじめ被災地域の人々の今後のことだ。このままだと、間違いなく破綻する。それは被災した今の状況からというだけのことではない。野菜はダメ、水はダメとなった今、そのことだけでも経済的影響は非常に大きい。皆廃業するしかない状況に追い込まれている。那須地域などは、酪農家も非常に多く、東北道を通らず下の道で現地に向かうと、乳牛たちが集う牧場を沢山目にすることができる。人間だけでなく、彼らにとっても死活問題だ。

 昨日は、東京の水も危ないという報道がされた。私たち大人はどうでもよい。だが、子供たちのことは守りたい。それが親が抱く正直な気持ちであろう。風評などで右往左往したくはない。だが、子供を何が何でも守るという親の思いは、誰にも抑えられない。子を守る権利は親にある。それを過剰反応だなんだと、中傷する権利は誰にもない。だが、現状だと、子供たちを守ることさえ難しい。これは非常に大きな問題だ。

 昨日の取材で気になった関係者の話があった。それは、空気中の放射能数値は低くとも、地面の放射能数は空気中の放射能が地面に落ち蓄積されているので高い。そのことを発表していない政府の姿勢は、少々問題があるように思うということであった。放射能を理解しようと思うのなら、解り易く一言でいえば、花粉に例えて理解することが分かり易いといっていた。

 過敏になる必要はない。だが、20キロ30キロで放射能汚染が心配されれば、もう200キロ300キロも、用心しなければならないということは、ある意味原発事故の常識であり理解しなければならない。最初の地震直後、ロシアやアメリカが直ぐに過剰反応と思われるほどの反応を見せたが、あれこそが正しい危機管理意識であったのだ。日本政府ならびに日本人の危機管理意識が低いことを、露呈しただけのことである。

 心配なのは、福島産、福島出身というだけで、差別されるようなことにならなければよいが、ということだ。彼らに何の罪もない。だが、現状、農作物など口に入れる物に対して、細心の注意を払わなければならないということは事実である。そうなると、廃業に追い込まれる農家や酪農家が、自然と福島から離れるのではないかということも懸念される。彼らにも、私たちと同じように生きる権利があり、生きていかなければならない。そうだとすれば、彼らを誰も中傷することはできない。寧ろ、我々が庇護していかなければならない。非常に難しい状況に、全ての日本人が置かれていることを、被災被爆地域のみでなく、全ての日本人が自覚し、腹を括って復興を考えなければならないと思った。

 ここで、一つだけ皆さんに思い起こしてほしいことがある。それは、広島や長崎に原爆が落とされた頃のことである。今後30年は草木も生えぬと言われていた。だが、翌年には、青々とした新芽が芽吹き、人も広島で生きていた。投下前と同じ状況とは言えない。だが、力強く復興に向け生きていた。そのことを忘れないでほしい。この地球上に生きる自然界の生き物は、人間も含め非常強い。どんなに困難な状況に置かれても、必ず這い上がってくる。そのことだけは、忘れないでほしい。後ろ向きなことを思えば、どんどんマイナス思考になってしまう。だが、復興するんだ、負けないのだというプラス思考で頑張れば、必ず良い結果を得ることができる。そのことは、他国には例のない速さで復興した阪神淡路大震災でも証明されている。
 
 日本人は、優秀だ。優秀なだけでなく、忍耐強く真面目だ。この真面目さが、国際社会では時として仇となる場合もある。だが、こういう危機的状態に於いては、アメリカ人の勇気とボランティア精神同様、日本人の真面目さは、他には比較にならないほど大きな力を発揮する。そのことを忘れず、誇りを持って皆で和を持って、力を合わせ復興しようではないか。日本人にならできる。間違いなく出来る。今までの過ちを反省し、これを機会に物質文明に翻弄された消費生活を顧みて、新たな一歩を踏み出そうではないか。この美しい国、美しい人々を守るために。頑張ろう!!!
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by seizaikai_club | 2011-03-24 11:23 | 社会

平成25年遷宮で米蔵から金蔵へ

平成25年遷宮で米蔵から金蔵へ
2010年8月8日

先日、
久しぶりに伊勢神宮をお参りした。
亡父が生前御世話になった大きな伊勢の神社に、
亡父の御柱を立てて頂いているので、
時々お参りに参上し、
その際必ずお伊勢さんまで足をのばす。

伊勢神宮は、
外宮から内宮とお参りをした。
かなり雨が降っていたが、
傘をさして神様をお参りするのでは、
失礼なので雨に濡れながらの参拝だった。
不思議なことに、
私のお伊勢参りは、
必ず雨なのだ。
まだ、
一度も晴天でお参りをしたことがない。
何か意味があるのではないか、
といつも思いを巡らせている。
だが、
まだ答えはみつからない。

今回のお伊勢参りで、
面白い話を聞くことができた。
それは、
来る平成25年の遷宮に関してだ。
今本殿は、
米蔵の位置にあるそうだ。
ところが、
今度の遷宮で、
金蔵の位置に戻るそうだ。
22年前の遷宮で、
金蔵から米蔵へ移った。
その直後バブルが弾けた。
歴史を振り返ってみても、
金蔵の位置に本殿がある間は、
経済的に栄えるそうだ。
よって、
平成25年の遷宮後、
日本の経済は回復するというのだ。
科学的ではないが、
歴史的には可能性は高い。
しかし、
どちらにしても、
後3年は、
景気回復には時間が掛かるということのようだ。
困ったものだ。
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by seizaikai_club | 2010-08-08 03:59 | 社会

中央官庁官僚によるタクシー・チケット問題

中央官庁官僚によるタクシー・チケット問題
2008年7月4日

 霞が関の中央官庁周辺に、以前から個人タクシーが行列をなしている光景は知っていた。個人タクシーばかりであるので、何かあるのであろうと思っていた。官庁だけでなく、タクシー・チケットを使う上場企業の接待でも、帰りにタクシーを拾う際、必ず企業の担当者は、「提灯、提灯」といって個人タクシーのみを選んで接待相手を送りだす。そして、接待した相手をタクシーに乗せながら、タクシー・チケットを渡す。これは、非常によく見掛ける光景だ。

 何故個人タクシーなのか、と不思議に思ったことがあり総務担当者に訊いてみた。すると、経理処理上の問題であるようなことをいっていた。タクシー会社に帰属するタクシーだと、法人なので、経理的に領収書やチケットでごまかしをすることが難しいからという理由であるらしい。確かに、個人タクシーなら個人経営であるから手書きだろうがなんだろうが申告の際に認められるのであろう。

 お陰で、個人タクシーは高飛車になり、サービスの質が昔に比較すると落ちた。嘗ては、個人タクシーの方が親切丁寧だといって、選んで個人タクシーに乗ったものだ。ところが、今では個人タクシーを避けてタクシーを拾う客も多い。

 そもそも、このタクシー問題へのマスコミの切り込み方が弱い。何故なら、大手マスコミ関係でも、タクシー・チケットを同じ要領で使っているからだ。マスコミにしても、官庁にしても、上場企業にしても、嘗ては皆黒塗りのハイヤーを使っていた。しかし、数十年前に、ハイヤーのことも今回のように問題になり、官庁も企業も皆ハイヤーからタクシー・チケットへとシフトした。だが、結局同じようなことが起こった。同じ人間がやっているのだから、当たり前といえば当たり前だ。

 そもそも、対応自体が間違っている。対応を間違えば、真面目に一生懸命やっている人間まで十把一絡げにされてしまう。そうなれば、不良官僚ばかりでなく国のために頑張っている優等生官僚までも腐らせてしまうことになりかねない。そうならぬようにしなければ、不公平感が広がることになる。それではどのように解決したらよいのか? 答えは、そんなに難しいことではない。

 そもそも、不正が容易にできるタクシー・チケットを税金でというところに、問題が大ありなのだ。だが、だからといって、残業をした官僚は歩いて帰れ、というわけにもいかない。何とかしなければならない。要は、宿泊施設を確保すればよいだけのことである。だからといって、ホテルでは駄目だ。また、同じことが繰り返される。そんなに大規模でなくともよいから、中央官庁の残業官僚達が宿泊できる施設を設置すればよいのだ。立派なものである必要はない。狭くとも、プライバシーと休息がとれる施設を作ればよいのだ。どの程度の比率で、残業組が出るのかがわからないので、その規模を明確にここで述べることはできない。だが、別に新しいものを建築する必要はない。余裕のある省庁であれば、ビル内のワン・フロアーを宿泊施設にするとか。あるいは、霞が関周辺に、全ての省庁に帰属する残業官僚が、身分証明書を提示するだけで使えるような施設を、既存のビルを利用して設置するとか、方法はいくらでもあるはずだ。確かに、先行投資はかかりそうだが、長い目で見たら、絶対この方が無駄を削減できるはずだ。

 大体が、ハイヤーからタクシー・チケットに移行した際も、如何に節約するかではなく、如何に新しい方法でお金を抜くかという逆算方式で対処されたのだから、今回のような問題が浮上して当たり前だ。関係者のそのような甘えの構造を改善しないかぎり、この問題は、形を変え必ずまた浮上するはずだ。

 結局、政治家も、官僚も、皆、公僕である。我々国民の税金で、生かされているのだ。にもかかわらず、企業でいえば株主である我々国民を蔑にしてばかりしていることにそもそも問題がある。これほど、この国が腐っていたことが、歴史上あるだろうか? 戦後のアメリカによる占領政策の結果が、60年経た今「腑抜け日本人」という形になって表れたとはいうが、政治家、官僚にとどまらず、兎に角、今の日本人はあまりにも物質文明に翻弄されすぎ、平和ボケになり、自己中心的でありすぎる。何とかしなければ、本当にこの国は滅びてしまうのではないか、と憂いているのは私だけではないはずだ。モラルは、健全な教育から生まれるといっても過言ではない。やはり、「教育」を立て直すことが、全ての問題を解決する唯一の術なのかもしれない。
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by seizaikai_club | 2008-07-04 16:21 | 社会

家庭教育崩壊を顕著に露呈する図書館本の扱い

家庭教育崩壊を顕著に露呈する図書館本の扱い
2006年12月13日

 昨日の読売新聞夕刊一面に、「図書館の本 傷だらけ」という記事が掲載された。読んでみると、信じがたい現象が公共図書館で起きていることがわかった。何と、図書館の若い利用者達が、躊躇いもなく図書館の本を切り抜いたり、線引きをしたり、と皆の本をまるで自分の本のように独占するような行為をしているというのだ。それどころか、切り抜きに気付いた図書館職員が注意すると、その若い女性利用者は、「いけないんですか?」と不満気に問い返してきたという。世も末である。

 図書館の本を大切に使うということは、別に教えられなくとも、ごく当たり前に普通のモラルを身につけていればわかること。それがわからないということは、非常に大きな危機感を覚える。これは、もう学校がどうのこうのという問題ではない。家庭の問題、親の問題である。

 あまりにも、自己中心的であり、常識はずれである。世界中どこの国に於いても、こんなに非道徳的なことはあり得ない。その上、それが当たり前で、注意されれば開き直る。これは、もう一線を越えているとしか言いようがない。そういう若者達は、親である大人達の言動を真似しながら育ったはずである。ということは、これは子供や若者の問題ではなく、日本人全体の問題であるということだ。

 他にも、同じようなことが多々ある。外国人を日本で迎え、何処の国から来た人々も一様に驚くことがある。それは、日本の高速道路でのことだ。合流地点で、絶対に合流をさせないように車間を詰める車が非常に多いことにである。ウィンカーを出していても、無理やりにでも車間を詰めてくる。しかし、合流地点というのは、順番に一台一台が譲り合う地点であることは、教習でも教えられていることであり、モラル的にいっても当たり前の「譲り合い」だ。ところが、それが、今の日本では為されていないのだ。アメリカ人はもとより、あの激しい運転で名高い韓国でさえ、合流地点での譲り合いは当たり前であり、日本のようなことはないという。日本人は、一体どうしてしまったのだ。

 数日前、こんなことがあった。左折するために歩行者が渡りきるのを待っていた。ご承知の通り、左折は、横断歩道の歩行者があるため、歩行者用の信号が赤に変わり、その直後に前進用の青信号が黄色、赤色へと変わってしまうほんのわずかに許された時間に左折をしなければならない。ところが、歩行者信号が赤に変わったにもかかわらず、小さな子供連れの父親が、手で車を制止し子供を渡らせようとしたのだ。これには、さすがに、温厚な私も瞬時にしてキレた。窓を開け、怒鳴りつけた。ところが、この父親は、子供の前であるにもかかわらず逆切れし、血相を変え居直ったのだ。どう考えてもおかしい。どこに、我が子を、わざわざ危険にさらす親がいるのだ。赤信号に変わった横断歩道を、5歳~6歳の子供を、どこの親が渡らせるのだ。しかも、それを注意され、子供の前で逆切れとは何たることだ。このような親を見て育った子供たちは、それは平気で図書館の本でも切り取るであろう。世も末である。これは、本当に危機的な状況であることを物語っている。日本人一人一人が自らを省み、真剣に社会の中の自分ということを見つめなおし、学び直さなければならない時にきていることは間違いない。教育の問題は、この原点から取り組まなければ、日本という国は、本当に大変なことになってしまう気がしてならない。
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by seizaikai_club | 2006-12-13 09:17 | 社会

「男は男らしく、女は女らしく」それは、「男を立て、女を守る」ということ

「男は男らしく、女は女らしく」それは、「男を立て、女を守る」ということ
2006年12月1日

 昨今、教育現場でも、社会全般に於いても、嘗てあまり経験したことのないような諸問題に遭遇することが多くなった。例えば、子供が親を殺めたり、子供が親を殺めたり、教師達が子供達に媚びたり、子供達が教師を無視したり、と嘗ては考えられなかったような深刻な事態や事件が頻発している。そのような深刻な状況を目の当たりにすると、日本の社会構造全体に地殻変動を起こりつつあるようにさえ思えてくる。教育問題にしても、それ以外の諸々の問題にしても、目先の解決策だけでは、このような深刻な現象を解決する根本的な解決策にはならないような事態に、既に至っているような気がしてならない。

 それでは、その原因は何であろうか? という疑問が起こるのは当然である。実は、多くの人々は、もう既に薄々その原因の一つに気付いている。しかし、口にできずにいるのではないか。それは、時代の流れで、下手なことを言えば、人権侵害だとか、男尊女卑だとか、趣旨を誤解され、趣旨とは違った部分での謗りや批判を受けることになりかねないからだ。だが、このことを自覚し、解決策を模索する議論を闘わせることなくして、本当の解決策を得ることは出来ないと私は思う。

 先日、胃癌で亡くなられたある小学校の校長先生が、私にこう仰っていた。「本当であれば、6年間の小学校生活の中で、全ての生徒達に、男性教師と女性教師両方の担任を経験してもらいたい。ですが、今の教育現場では、男性教師が圧倒的に不足してしまっているのです。教育で、最も大切なことは、バランスだと私は思っています」と。実は、この言葉の中には、今社会が抱える問題の解決の糸口となる、非常に大切な事柄が含まれている。私は、この話を聞いた時、そのように思った。「教育とは、バランス」このことは、案外、今の教育現場で等閑にされているが、非常に大切なことである。男性教師と女性教師の比率の問題だけでなく、全ての面でバランス感覚が失われている気がしてならない。

 子供達は、無垢な白紙の状態である。その白紙の状態である子供達は、教育を受け、知識を得て、それらを自分なりに消化しながら育っていく。その段階で、徐々に色をつけていく。決して、教師や大人達が色を勝手につけてはならない。誰にも、そのような権利はない。である以上、教育現場に於いて中庸を保つということは、非常に大切なことになる。ところが、戦後61年間の教育現場では、主張ばかりがなされ、子供達を中庸に保つことを忘れられていた。その結果、昨今起こっているような悲しむべき事件が、頻発してしまうようになった。

 一部の親や教師達が、学校で国歌を斉唱し国旗を掲揚することに反対する。その理由として、自分の思想に反する行為を強要されるべきではない、というようなことを盛んに主張する。だが、子供達にまだ思想はない。その思想とは、親や教師達の勝手な思想だ。そして、彼らは、子供達も、主張する大人を目の当たりにすることによって、問題意識を持つようになり良い、というようなことまで言う。しかし、それは間違っている。主張することは大切である。だが、主張するという行為は、まだしっかりと人として確立されていない子供達に植え付けるものではなく、子供達が自らの考えを持てるようになった時に、初めて自分の内から湧き出るものであるはずだ。そのような未熟な段階では、拒否するという行為だけを面白おかしく捉えてしまう可能性が高い。そのような未熟な時期に、子供達に見せ付けるべきことではない。それよりも、親を敬い、教師を敬い、他人に礼を尽くし、というような道徳心を育むことの方が先である。そのような道徳教育もなされていない内に、主張ばかりを押し付けられた子供達が、どのような大人に育つかは火を見るよりも明らかである。にもかかわらず、そのような主張を繰り返す教師や大人達は、その段階で、教師や親としての資質を疑わざるを得ない。子供達のいない職員室で、国歌斉唱や国旗掲揚を拒否しようが、それはそれぞれの教師の自由である。しかし、子供達の面前で、そのようなことをすることは、如何なる理由があろうとも許されない。

 そして、このようなバランス感覚の喪失ということは、学校という教育現場だけの問題ではない。家庭におけるバランス感覚の欠如という問題の方が、むしろ学校よりも大きいように思う。

子供達は、親の後姿を見て育つ。親の言動を真似して育つのである。それは、何も人間だけのことではなく、全ての生き物にDNAとして埋め込まれている本能だ。親が、天に唾を吐けば、その子供も同じことをする。

 例えば、こんな親子を見たことがある。ある都内の公園で、親が腰掛け、その周りで子供達が遊んでいた。その親は、子供の前で、飲んでいた缶ジュースの缶をその場に置き去りにして立ち去ろうとした。子供達も、その親が置き去りにした缶ジュースの缶に並べて自分達の缶を置いた。ところが、突然、その親が子供達にこう言い放った。「並べて置いたら目立つだろ」そう叱咤された子供達は、戸惑った様子であった。それはそうである。子供達は、親がしたことを真似ただけである。にもかかわらず、怒られれば、子供達は何が何だかわからなくなってしまう。当然のことだ。

 保護者会などに参加した帰り道、保護者同士で話をしているのに聞き耳を立てると、教師の悪口や学校への不満話で盛り上がっている様子が聞こえてくる。きっとこの親達は、家に帰っても、子供達の前で、無神経に同じような教師の悪口や学校への不満話をしているのだろうな、と思ってしまう。また、我が家は父子家庭なので、ずっと、全ての学校行事やPTAにも私が参加していた。どうしても、皆の輪に入りづらい時がある。それは、父親、即ち自分達の夫の悪口を盛んにしあっているからである。この時も同じく思う。子供達の前でも、きっと同じように父親の悪口を言っているのだろうなと。人間である以上、不平不満を言うのは仕方がない。しかし、時と場合を考慮してなさなければ、それは思わぬ結果をもたらすことになりかねない。

 随分と前置きが長くなってしまったが、ここで本題に入る。今、起こっている諸問題を解決するには、まず「男は男らしく、女は女らしく」ということを、皆がそれぞれに自覚することが大切である、と私は強く思う。何も男尊女卑で言っているのではない。男女は平等である、と私も思っている。女性は素晴らしいし、女性なくして男性は成り立たないし、生きていくことができないこともよくわかっている。ただ、男には男にしか為せないことがある。そして、女性には女性にしか為せないことがある。このことが、昨今見失われてしまっている気がしてならない。どんなに優秀なキャリア・ウーマンでも、男に成ることはできない。どんなに、料理が上手く、家事を上手にこなす男でも、女になることはできない。そのことを、子供達に教えることを怠れば、将来、日本の社会はアンバランスな住みにくい社会になってしまうであろう。

 昔は、わざわざそんなことを教えなくとも、家族という小社会の中で自然に子供達は学んでいた。家族の中には、祖父母がおり、時と場合によっては、叔父叔母がいたり、その家族も同居していたり、兄弟も沢山いた。その家族という小社会の中で、家長である父を敬い、家族は父を立てることを母親の立ち居振る舞いから学び取った。また、それぞれの家族の立場が尊重され、暗黙のうちに人との係わり合いということを学び取っていた。その結果、家族という小社会よりも大きい、学校という社会生活の中でも、友達や先生とどう接し、どう関わるべきか、ということを自然に体得していた。ところが、昨今、そういう人との関わりという基本的なことを学び取る機会がなくなってしまった。

 大体、嘗ては、教師は聖職であり、地域全体から尊敬の念を持って対応されていた。そのような大人達の立ち居振る舞いを目の当たりにした子供達は、自然と教師を敬い、教師に礼を尽くすということを体得した。そのような教師と生徒の健全なる関係によって、教え教えられるという教育ということが成り立っていた。

 ところが、昨今、家庭で、保護者達が、教師や学校のことを子供達の前で罵倒していることが多い。そういう環境では、子供達が教師を敬うわけがないし、学校で学ぼうとするはずもない。教師のことも、学校のことも、親達を真似してバカにしてしまうからだ。このことは、学校や教師へ対してだけではない、男親へ対しても同じことが言える。

 家族とは、万国共通、男親が家長として支えている。男親が、家族を守るものである。しかし、その家長たる男親を、母親が子供達の前で罵倒してしまえば、子供達が父親に対して尊敬の念を抱くわけがない。そうなれば、男親も面白くはない。家族のために一生懸命働いているにもかかわらず、文句ばかり言われ、自分がいない時には、母親と子供達が結託し悪口を言っている。当然のことながら、父親の気持が家族から離れる。そうなれば、家族という子供達にとってこの世で最も大切な小社会に不協和音が生じる。その結果、子供達は大きな不安を心中に抱く。その不安の捌け口が、いじめや諸々の良からぬ行為となってでる。心のやり場がなくなった子供達にとっては、それが逃げ道、捌け口なのである。きっと、最初は、心で叫び、親へもSOSを出していたはずだ。だが、親がそのSOSを受け止めなければ、子供達は益々迷路に迷い込むことになる。今必要なのは、子供達に声を出させることよりも、親達に子供達のSOSを受け止めさせることだ。間違っても、鬱陶しがって、子供達からのSOSを聞き流したりしないようにすることだ。

 と同時に、「男は男らしく、女は女らしく」ということに思いを巡らし回帰することだ。女性が強くなった。その反面、男性が弱くなった。このことは間違いない。だが、男と女の役割は、時代が変わろうが、天と地がひっくりかえろうが、変わることはない。女は、色々な意味で男を立てなければならない。それは、女の役目である。男を立てなければ、家族が立たない。家族が成り立たなければ、父親が帰属する会社が成り立たなくなる。そして、会社が成り立たなければ、社会が成り立たない。社会が成り立たなければ、この国が世界の中で成り立つ訳がない。男は女に立てられれば、必ずその気になる。それはDNAで埋め込まれている。その気になれば、男は女を守り、家族を守る。女を守り、家族を守るために、一生懸命働く。男が一生懸命働けば、男が帰属する会社が繁栄する。会社が繁栄すれば、男の家族は潤う。同時に、男の会社が繁栄すれば、社会も繁栄し、国も栄える。

 確かに、男が弱くなった。男が弱くなったから、女が強くなったのかもしれない。しかし、男を強くその気にできるのは、女だけなのだ。そのことを女は忘れてはならない。女を忘れた女に、男をその気にさせ動かすことはできない。同じことが、男へ対しても言える。男を忘れた男には、女をその気にさせることはできない。男は、強くなければならない。そして、女を守り、家族を守らなければならない。それは、それぞれのDNAに埋め込まれた、逃れようのない宿命なのだ。「男は男らしく、女は女らしく」ということは、男は男を忘れず、女は女を忘れず、女は男を立て、男は女を守るということなのだ。このことに気付かずして、如何なる解決策も有り得ない。私は、そう思う。
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by seizaikai_club | 2006-12-01 17:00 | 社会

道徳心が欠落し当たり前のことが当たり前に為せぬ現代日本

道徳心が欠落し当たり前のことが当たり前に為せぬ現代日本
今こそ「教育勅語」と「修身」を見直し道徳心の回帰を
2006年7月31日

 戦後、日本の復興と弱体化政策を推し進めるGHQによって、「教育勅語」も、「修身」も、一方的に悪の象徴とみなされた。何故なら、劣勢であるにもかかわらず日本軍が勇猛果敢に戦ったのは、日本国民が現人神天皇陛下の下、「教育勅語」や「修身」を信じ、一致団結して頑張ったからと信じたからだ。結局、1946年に「教育勅語」と「修身」の奉読と神格的取り扱いは禁止され、1948年には失効確認が決議された。それ以来、「教育勅語」も「修身」も、我々日本人にとっては、口にすること自体タブーとなって60年余の月日が流れ去った。

 嘗て、日本の学校には、門の横に奉安殿という建物が必ず建っていた。そこの中に、「教育勅語」は、桐の箱に入れられ、桐の盆に載せられて安置されていた。そのような形態で奉られていたので、GHQは真っ先に奉安殿を取り壊し、「教育勅語」を廃止したのかもしれない。だが、あの当時、GHQが真剣に「教育勅語」の精査をしていれば、もしかすると廃止されてはいなかったかもしれない。

 戦後60年経った現在でも、共産党をはじめ一部の日本人は、「教育勅語」は天皇を神として奉り主権在民の現行憲法に反する、戦時中や軍国主義を回帰するなどと言って、今でも遮二無二否定し続けている。しかし、それは、あの時代、天皇が現人神であった時代であるならば、確かに「教育勅語」は天皇が国民に直に下した言葉、という捉え方をされても致し方ない。だが、現代において、そのような捉え方をするのは時代錯誤だ。誰も、あの時代に回帰するべく、「教育勅語」のことを口にする日本人はいないはずだ。

 偏向することなく、また明治天皇が発した言葉ということを除外して、道徳心という視点で「教育勅語」や「修身」ということを見直すと、今、現代日本で失われている道徳心の在り方が見えてくるはずである。世界の中で日本が特異な国、得意な美徳を持ち、非常に礼儀正しい国民として見られていたのは、「教育勅語」や「修身」によるところが大きかったようにさえ思えてくるのは、私だけではないはずである。

 その証拠に、アメリカの故ロナルド・レーガン元大統領やイギリスのサッチャー首相は、自室に英訳された「教育勅語」を飾っていたという。80年代のアメリカは、現在の日本のように物質文明を極め豊かにはなっていたが、道徳心は失われ凶悪犯罪が頻発し、検挙率も低迷していた。心を痛め、アメリカの将来を憂いた故レーガン元大統領は、「教育勅語」を参考に、道徳心を説く本を出版することを側近に指示し実現した。その本は、現在では、英語だけでなく、フランス語、ドイツ語、スペイン語などにも翻訳され、道徳心のバイブルとして、世界中で3000万部以上を売り上げている。それだけではない、フランスの通信社AFPの東京支局長であったレオン・ブルー氏も、「外国人記者の直言」という読売新聞の欄に、「教育勅語と漢文の問題」という論文を掲載し、「教育勅語」は素晴らしい道徳の教えであり、「教育勅語」をめぐる論争はさっぱり理解できない、とさえ言っている。また、在日フランス大使館に勤務していたポール・ボネ氏は、現代における日本の子供達の傍若無人ぶりと、教育の一環としての体罰を暴力と位置づけている現代日本の平和ボケぶりを痛烈に批判すると同時に、「教育勅語」の廃止を嘆き、修身教育を絶賛している。

 今、教育現場では、混乱が起きている。子供達の発育は、想像以上に早くなった。小学校高学年で、思春期の反抗行動さえ始まっている。しかし、体の成長に彼らの精神的成長が追いついていない。そのことで、多くの教師は、高い壁にぶつかっている。何故なら、彼ら生徒達をまとめられなくなっているからだ。心無い親達は、教師の質が落ちた、などなど教師を批判するような言葉を無神経に子供達の前で吐く。それだけではない、父親の悪口さえ子供達の前で披露する有様である。子供達が、道に迷って当たり前である。

 確かに、戦後教育に大きな問題があった。そのツケが、今回ってきている、ということもいえる。しかし、現状、教育現場を見ていると、子供達にとって最も身近な存在である大人達すなわち親達に、問題がある場合が多い。PTAでは、体罰を暴力として禁止し、教師は教育現場というジャングルで、雁字搦めの丸腰状態で奮闘している。生徒に体罰を加えようものなら、その教師はたちまちPTAによって「暴力教師」として葬り去られてしまう。このような環境で、どうして子供達の教育などできようか? 親の道徳心が欠落しているのである。子供達の道徳心が欠落していても当たり前である。子供達を教育する前に、まず国は親達大人を教育しなければ、この国は本当に滅びてしまうであろう。非常に大きな危機感を覚える。当然のことながら、教師もお座成りの教育は許されない。何年かに一度、教師資格の更新審査などの制度も取り入れ、やる気の無い教師には退陣願う。しかし、同時に、我々親も、道徳心を養う必要があるのではないか。強く、そのように思う。そこで、ここに「教育勅語」の原文と口語訳文と「修身」を掲載することにした。よく、読み直して、色々なことを感じて頂きたい。


■教育勅語■

朕惟フニ、我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ。 我カ臣

民、克ク忠ニ克ク孝ニ、億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ

精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス。 爾臣民、父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦

相和シ、朋友相信シ、恭儉己レヲ持シ、博愛衆ニ及ホシ、學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ

智能ヲ啓發シ、徳器ヲ成就シ、進テ公益ヲ廣メ、世務ヲ開キ、常ニ國憲ヲ重シ、

國法ニ遵ヒ、一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ。

是ノ如キハ、獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スル

ニ足ラン。斯ノ道ハ、實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘ

キ所、之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス。朕爾臣民ト倶ニ拳々

服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ。

明治二十三年十月三十日

御名 御璽


■教育勅語 口語訳文■

 私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じる。そして、国民は忠孝両全の道を完うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、美事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じる。

 国民の皆さんは、子は親に孝養をつくし、兄弟、姉妹はたがいに力を合わせて助け合い、夫婦は仲むつまじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じあい、そして、自分の言動をつつしみ、すべての人々に愛の手をさしのべ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格をみがき、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また法律や秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければならない。そして、これらのことは、善良なる国民としての当然のつとめであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、更にいっそう明らかにすることでもある。

 このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、このおしえは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、まちがいのない道でありますから、私もまた国民の皆さんとともに、父祖の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものである。

※日本道徳教会訳文参考
            


■教育勅語十二の徳■

1)  父母ニ孝ニ
   親や先祖を大切に。

2) 兄弟ニ友ニ
   兄弟は仲良く。

3) 夫婦相和シ
   夫婦はいつも仲睦まじく。

4) 朋友相信ジ
   友達はお互いに信じあう。

5) 恭倹己ヲ持シ
   自分の言動を慎む。

6) 博愛衆ニ及ボシ
   広く全ての人に愛の手を差し伸べる。

7) 学ヲ修メ業ヲ習イ
   勉学にはげみ技能を身に付ける。

8) 知能ヲ啓発シ
   知徳を養い才能を伸ばす。

9) 徳器ヲ成就シ
   人格の向上に努める。

10)公益ヲ広メ政務ヲ開キ
   広く世の人々や社会の為に尽くす。

11)国憲ヲ重ンジ国法ニ遵イ
   規則に従い社会の秩序を守る。

12)一旦緩急アレバ義勇公ニ奉シ
   勇気をもって世の為に尽くす。


■日本の修身■

1)家庭のしつけ
2)親孝行
3)家族・家庭
4)勤労・努力
5)勉学・研究
6)創意・工夫
7)公益・奉仕
8)進取の気象
9)博愛・慈善
10)質素・倹約
11)責任・職分
12)友情・朋友
13)信義・誠実
14)師弟
15)反省
16)素直・至誠
17)克己。節制
18)謝恩
19)健康・養生
20)武士
21)愛国心
22)人物・人格
23)公衆道徳
24)国旗と国歌
25)国際協調
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by seizaikai_club | 2006-07-31 17:11 | 社会

正露丸裁判にみる裁判官の良識の無さ

正露丸裁判にみる裁判官の良識の無さ
2006年7月28日

 腹痛止めの薬として有名な正露丸が裁判をしていたということは、案外知られていないかもしれない。同時に、ラッパのマークのモノだけでなく複数の薬品会社から正露丸の類似品が販売されていることも、あまり広く一般に知られていないのではないか? 何故なら、多くの消費者は、正露丸は正露丸、1つしかなく1社しか製造してないと思い込んでしまっているからだ。だが、実際には、大小含めて8社から9社の製薬会社から、正露丸は発売されている。このような状況下、正露丸を発売する大幸薬品株式会社は、人知れず類似品を販売する和泉薬品工業株式会社を相手取り、平成17年11月24日大阪地方裁判所に、「不正競業行為差止等請求事件」として提訴していた。そして、昨日すなわち7月27日、大阪地裁は大幸薬品側からの訴訟を棄却する判決を下した。しかし、この判決には、非常に大きな疑問が残る。何故ならば、裁判官が現実を全く把握してないと思われるからだ。

 確かに、大幸薬品側にとっても、自社が80年以上販売してきた製品の類似品が、しかもパッケージ等も酷似した状態で販売されているこということは、非常に重要な問題であり、由々しき問題でもあるはずだ。だが、それ以上に、正露丸を長年愛用する消費者にとって、これは大きな問題である。何故ならば、正露丸愛用者の多くは、幼少時より服用し、正露丸へ対しての信頼は肌染み付いている。また、その効果に対しても、当然のことながら、長年に渡り安心感を抱いている。だからこそ、海外に渡航する時にも、その臭いや見た目から検査されるという煩わしさがあるにも関わらず、常備薬として持ち歩くのではないか。愛用者である消費者の気付かぬ内に、その正露丸の類似品が販売されているどころか、そのパッケージも酷似していて、間違って買ってしまう可能性が非常に高いなどということは、正露丸を信頼し長年愛用している消費者にとって非常に大きな不利益を被ることになることは言わずと知れたことだ。斯くいう私も、大幸薬品の正露丸でないモノを、間違って買ったり買わされたりした経験が何度もある。

 例えば、大手量販店で購入した時などは、大幸薬品の正露丸と100%思い込み、購入し帰宅した。服用してみたところ、粒の硬さや大きさ、そして、微妙に臭いも違うような気がした。改めてパッケージを見直してみたが、いつもの正露丸のような気もするし、違うような気もする。何故なら、正露丸は、一種類しかないと思い込んでいるので、自分が幼少時から服用していた正露丸が大幸薬品という製薬会社から発売されているということもそんなに意識もせず、当たり前で服用し続けてきた。また、ラッパのマークとは言うが、そこまで常日頃から意識して服用してきたということもない。橙色の箱に入り、シンボル・マークが丸い囲いの中にあり、ビンは茶色の半透明で蓋は橙色、そのようなイメージで正露丸という商品は記憶されている。だから、他社のモノは、シンボル・マークがラッパのマークでないので判別できる、などという理由で訴えを棄却する裁判官は、消費者の心理をまったく理解していないとしか言いようがない。また、実際に、ご自分で、薬局に行き、一般人と同じように正露丸を購入した経験も、店頭を視察した経験もないのではないか、としか思えない。

 例えば、薬局によっては、「こちらが正露丸を下さい」というと、何の断りもなく類似品を出してくる。「これは類人品である」という説明もまったくなしである。気付いた場合はよいが、大抵の場合は気付かない。万が一、気付いて問い質すと、「効能にはまったく違いがありません。こちらの方が値段も安くお得ですから」と訳の解らない言い訳をする。長年信頼して服用している薬を、損得で変えることを勧める薬局の人間や薬剤師の感性を疑う。モラルを逸している。金儲けのためなら、商売のためなら、安心や信頼まで、かなぐり捨てるのか? 薬局や薬剤師というのは、誰にでもできる業種ではないはずだ。その自覚というものはないのか? 非常に大きな憤りと疑問を感じていた。そんな矢先、このような判決が下された。本当に、日本人のモラル意識、道徳心というのはどうなってしまったのか。裁判官がこれでは、一般の日本人のモラル意識も低下するのは当然である。

 多分、類似品の方が、薬局にとっての利益率が高いのであろう。そうして、信頼と安心を蔑ろにした分、消費者にとっても多分粒数や値段が、薬局の人間が言うように得なのであろう。ということは、今回の大阪地裁の判決は、類似品を販売している会社の販売促進に加担したと取られてもおかしくない。まったく常軌を逸した判決としか言いようがない。

 効能は、ほとんど変わらない、ラッパのマークでないのでなどと言われても、消費者にとっては、何の解決策にもならない。効能は、あまり変わらなくとも、信頼度はまったく違う。そのことを、この裁判官はまったく無視している。というか、消費者の意識をまったく理解せず、消費者不在の判決であるとしか言いようがない。

 昨今よく耳にするジェネリック医薬品(特許権や商標権の切れた後にオリジナル薬の類似薬品を同業他社が製造し販売する医薬品)という概念にも、消費者の立場からすれば、形は違うがその在り方に影響する裁判ではないか。ジェネリック医薬品は、医師の処方箋が必要なようであるが、その延長線上には一般医薬品もあるはずだ。そういう意味でも、今回の正露丸の裁判は、もっと精査し、如何なる理由があろうとも、消費者に不利益を及ぼすこのないような判決を出すべきであった。それでなくとも、保険業界と製薬業界は、あらゆる意味での硬い砦で守られていると言われている業界である。今までは、全てが製薬業界の方にばかり偏った流れできてしまっている。これからは、消費者側の立場に立った流れにならなければならないはずである。莫大な利益を上げる製薬会社は、政治的な力も強大である。だからと言って、何でも許されるというのではいけない。今回の判決は、ジェネリック医薬品の普及を厚生労働省が推進しだした矢先の判決である。製薬業界の大きな見えざる圧力が働いたのではないか、と勘繰りたくなるのは私だけではないはずだ。

 大幸薬品は、今回の判決を不服として控訴するという。正しい判断であると思う。今後の、裁判を我々消費者も、他人事ではなく、自分達の一番身近にある医薬品の信頼性の問題として関心を持ち、見守り続けるべきである。何故なら、自らの安全は自ら守るしかないのが、今の日本であるからだ。一体、道徳心に守られた、古き良き日本は、一体何処へ行ってしまったのか。それにしても、保険業界と製薬業界が抱える、見逃すことのできない黒く汚い問題は他にも沢山ある。我々国民一人一人が、厳しい目で見守るべきである。
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by seizaikai_club | 2006-07-29 08:23 | 社会

諸悪の根源は企業にあり 

 社会に於いて、本当の悪は何であるかを見極めることこそが非常に大切なこと。兎角日本人は、自分の見聞ではなく他人からの噂話や、右向け右で自分の意思というよりも、皆と同じ方向を向いていた方が良い、というような判断基準を持っている人々が多い国民性を持っている。そのような社会環境の中で、日本ほど企業が偽善者面して、正義の味方よろしく、金に物を言わせ政治家までも動かし、自分達のご都合主義で法律まで変えてしまう程に、大きな権力をもっている国はない。そして、そんな企業の餌食となっている一番の被害者は、民、即ち一般国民であり消費者なのである。しかし、そんな企業は法律というバリアで守られ、自分達の権利はしっかりと主張できる偏向した社会体制にあるのが日本である。

 このような社会環境だからこそ、隣国からの圧力に屈してしまうような、隣国の理不尽な主張までをも受け入れてしまうような世論を扇動するようなことが起こってしまうのだ。小泉首相が言う通りである。隣国が、外交戦略で理不尽なことを言ってくるのは、100歩譲って仕方ないとする。しかし、そのような理不尽な隣国の主張に同調し擁護する日本人がいることこそが、憂慮すべき大きな問題点なのである。

 体制を批判し、体制に反発することで生き甲斐を見出してきた団塊の世代。その団塊の世代が、社会のリーダーシップをとっている。彼らは、左よりな思想を背景に、浅はかなる平和主義を盾に、国益をも損ねようとしている。日本のマスコミは、現状そのような世代がトップに君臨している。そして、そのマスコミは、企業よりの広告収入で成り立っている。そのようなマスコミを左右する企業は、自社の利益を国益よりも何よりも優先する。だから中国の理不尽なる主張を擁護するような輩が世の中に横行するのだ。偏向した報道姿勢により、多くの国民が惑わされ国益に反する方向へと導かれてしまう。

 テレビの力は大きい。その影響力は絶大である。そのテレビを支配しているのも、企業である。企業による広告費は、昨年一年で3600億円を超える大きさだ。小さな国の国家予算を大きく上回る額だ。そんな企業人が、愛国心もなく、倫理観もなく、価値基準は「金」ということでは、日本が良くなるわけがない。

 よく「最近の子供達は・・・」などという言葉を耳にする。しかし、私は言いたい、「最近の大人こそ・・・」と。大人が、そんなエゲツナイ価値基準で、金儲けに奔走していて、子供が良く育つ訳がない。子供達は、大人の後姿を見て育つのである。

 昨日のトヨタのセクハラ問題に関してのトヨタ会長のニヤケ顔を見れば、全てが押して知るべしである。「タイミングが悪い・・・」日本の財界を背負う人間が、あの有様である。タイミングではなく、倫理の問題だ。ニヤケテ記者会見する問題ではない。本当の社会悪は、企業悪に他ならない。法律の網の目ギリギリで、金儲けに奔走する企業。彼ら以上の悪党が、この世にあるであろうか。

 どこの世界にも、悪党も善人もいる。しかし、肩書きや業界で決め付けることほど、差別的で侮蔑的な行為はない。人には色々な運命があり、それぞれの運命を背負って生きている。それでも、人は一生懸命生きているのである。政治の世界にも、良い政治家もいれば、金儲けと名誉欲に奔走する政治屋もいる。財界にも、悪党も善人もいる。任侠の世界もしかり。任侠の世界に身をおいているから、十派一絡げで皆悪党という偏向した考え方は間違っている。寧ろ、心の清い、しかし、少々不器用にしか生きられない男気のある、善人が実は沢山いる。私は、強くそう思う。

 暴対法ができて以来、日本はおかしくなっている。暴対法を施行するという発想自体が、偏向しており間違っている。それは、何も任侠界のみの話ではないのだ。暴対法という偏向した法律がまかり通ってしまうということ自体が、日本の形が歪になってきた証拠である。その発端が、暴対法だと私は思う。昔の紳士録と、何ら変わらない発想ではないか。企業が自己防衛の為に、金に物を言わせごり押しで創った法律ではないか。共同共謀正犯に関しても、同じような印象を持つ。人を決め付ける法律。悪法である。

 人を勝手に決め付けることほど、この世に於いて理不尽で悲しむべき行為はない。いくら頑張っても認められない、なんていう社会が良い社会のわけがない。一部の既得権者のみにとっての天下であり、間違っていることは疑いない。任侠という世界は、日本の文化だ。歴史だ。任侠を否定することは、日本の歴史を否定するに等しいことであると私は強く思う。

 人は、人を、色眼鏡ではなく、常に公平な目で見るべきである。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」福沢諭吉の教えである。小泉さんは、慶応ボーイ。この教えが根底にあると、私は信じたい。ジョン・レノンの「イマジン」という曲の中にも、同じことが歌われている。慶応卒のオノ・ヨウコの影響であろう。しかし、この言葉ほど、心に染み入る良い言葉はない。

◆参考文献◆

 福沢諭吉は海舟の批判者であり続けた。戊辰戦争の折に清水港に停泊中の脱走艦隊の1隻である咸臨丸の船員が新政府軍と交戦し徳川方の戦死者が放置された件(清水次郎長が埋葬し男を上げた意味でも有名)で、明治になってから戦死者の慰霊の石碑が清水の清見寺内に立てられるが、福沢は家族旅行で清水に遊びこの石碑の碑文を書いた男が榎本武揚と銘記され、その内容が「食人之食者死人之事(人の食(禄)を食む者は人の事に死す。即ち徳川に仕える者は徳川家のために死すという意味)」を見ると激怒したという(註1)。

(註1)次郎長もこの石碑が建てられた際に来ているが、意味がわからない子分のために漢文の内容を分かりやすく教えている。自己犠牲というアウトローが尊ぶ精神構造と似ていたせいか福沢と教養面で隔絶した文盲の子分たちは大いに納得していたという。

 「瘠我慢の説」という公開書簡によって、海舟と榎本武揚(共に旧幕臣でありながら明治政府に仕えた)を理路整然と、古今の引用を引きながら、相手の立場を理解していると公平な立場を強調しながら、容赦なく批判している。勝が維新後に栄誉を受けたことを転身、裏切りとするこの手の意見は今も絶えないが、勝、榎本両者は徳川家には充分尽くしたのであり、また徳川家という狭い枠にとどまらず、日本のために尽くしたのである。 現に明治維新という急激な改革に不平士族たちが反乱を起こすが、最大の敵性グループであった旧幕臣たちはついにそむくことはなかった。これは勝や大久保一翁、山岡鉄舟らの尽力によるものである。このことはもっと評価されてもよい。
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by seizaikai_club | 2006-05-09 21:12 | 社会

ライブドアの創設者堀江貴文氏が保釈

「ライブドアの創設者堀江貴文氏が保釈」
2006年4月27日

 94日間の拘置所生活に終止符を打ち、本日午後9時半過ぎにライブドアの創設者堀江貴文氏が保釈になった。保釈金は、3億円であったという。保釈金の額は、男の値打とも言う。3億円の保釈金は、堀江貴文という男が半端ではないことを証明している。

 世間では色々と言われている。嘗ての堀江ファンである出資者達も、今ではその多くが彼のことを批判したり罵声を浴びせたりしている。確かに、株主を裏切ったことは良くない。そのことは、真摯に受け止め反省してもらいたい。ただ、これで終わりということではない。彼は、まだ33歳である。しかも、優秀な男である。頑張ってもらいたい。

 依然、容疑に関しては、否認を続けている。否認を続けているにもかかわらず、保釈が認められたということは彼にとっては良いことである。これからは、裁判での争いになる。一貫して否認を続ける彼の信念と根性は、なかなか頼もしい限りである。他の幹部達は、早々に全てを認め保釈されていた。結局のところ、他の幹部達は偉そうなことを言っても唯の凡人であったということだ。やはり、ライブドアという会社は、堀江氏あってのライブドアであったということだ。

 企業とか事業ということは、ある程度まで肥大化すると、代表取締役の意思を他所に動き出し、代表者の意思が働かなくなり、止めることもできず、また、止まらなくなる場合がある。ある意味、今回の事件によって、そんなライブドアにブレーキがかかり、止まることができたことで一番救われたのは、堀江氏自身であったような気がしてならない。実は、彼自身もホッとしているのではないか。

 彼は悪党ではない、と私は今でも信じている。あの目は、悪党の目ではない。あの言動は、悪党の言動ではない。ただ、若気の至りで、踊りだしたら止まらなくなり、止めることもできなくなってしまっていたのではないか。色々な人間の思惑が、堀江貴文という異端児の周りを、ライブドアという異色の会社の周りを渦巻き、彼の意思とは別のところで、別の動きをし始めてしまっていた。彼は、そのことに気付いてはいた。しかし、それを自力で止めることがもうできないところまでいってしまっていた。そんなところだろう。

 今日、保釈された堀江氏の姿は、そんな大きなプレッシャーからこの3ヶ月間で開放された、素の堀江貴文に戻った姿のように見えたのは私だけではなかったはずだ。8キロ痩せたということだが、無駄に肥大していた彼自身の身体も、毒抜きをしてすっきり健康的にスリムにハンサムになって戻ってきた。まだ、33歳である。そして、彼は優秀な人間である。この過ちを素直に反省し再起すれば、こんどこそ無敵の大物になれる可能性がある。私は、そう思う。

 裁判は、刑事裁判での結果が、民事裁判の結論に影響する。彼が否認を続けているということは、彼の裁判を視野に入れた闘いは既に始まっている。彼には、譲れない信念が見て取れる。それは、容疑を早々に認めた幹部達にはない信念である。その信念は、彼がライブドアを起こした当初より続いているように私には思える。それは、堀江貴文という人間そのものであるような気がする。作り物ではない、堀江貴文という人間そのものなのだ。その中心は、反骨精神である。体制への反骨精神である。今回の事件に於いても、そのような反骨精神は感じ取れる。彼の芯の部分では、理不尽な旧態依然とした財界・政界の体制へ対しての反骨精神が、マグマを宿し活火山として彼の中で息づいているに違いない。だからこそ、辛い中でも、独り否認を続けてこられたのであろう。多分、裁判という新たなる土俵で、彼は一生懸命闘うことであろう。負けないように。負けるということは、彼が彼自身を否定すること、そのように彼は思っているに違いない。堀江貴文という男は、そういう人間であると私は思う。数年後の、彼がどのように逞しくなっているか楽しみである。日本の若者達へ勇気と度胸と夢を与えるべく、再び頑張ってほしいものだ。
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by seizaikai_club | 2006-04-28 01:02 | 社会

「政治をもっと身近に」をスローガンにして、日本人にもっと「愛国心」を喚起すべく語る。
by seizaikai_club
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政財界倶楽部代表  恩田将葉
 「政治をもっと身近に」をスローガンに、一人でも多くの日本国民が政治に関心を持ち、参加してくれるよう、執筆活動、出版活動等を通じ「愛国心」啓蒙活動をしている。国際化が進む世界の中で、日本の政治も若者の手で変革しなければならない!!

 政財界倶楽部代表恩田将葉は、 アメリカ合衆国カリフォルニア州で約9年間生活。その間、サン・フランシスコ州立大学(San Francisco State University, SFSU)国際関係学部で国際関係学と政治を学び、朝鮮半島問題専攻で卒業。その後、暫くアメリカで現地法人の会社(People Intertrade, Inc.)を経営した後帰国。帰国後は、記者と編集者を経て出版社である株式会社ぴいぷる社と株式会社政財界出版社、そして、夕刊紙「内外タイムス」を発行する株式会社内外タイムス社の社長に就任。活字業界一筋に生きてきた。現在は、経営から一歩引き、国際情勢ならびに政治を中心に、ジャンルを問わず執筆活動を継続中。プロの文士として、随筆、小説、脚本等あらゆる分野で執筆活動を展開し、文章を綴ることを天職としている。そのかたわら、日本に、嘗てのごとく「愛国人」を増やすべく、「政治をもっと身近に」をスローガンに、自ら「政財界倶楽部」を運営している。

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