政財界倶楽部         (恩田将葉見聞録)

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2006年1月18日発売
『リボン』
[初回盤]
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価格:3,150円(税込)
SNCC-86913
(CD+DVD/2枚組)
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カテゴリ:歴史( 8 )

「万国布武」信長の世界統一を見たくないか。

本日よりiBook(https://itun.es/i6Bx5Dr)
kindle, YONDMILLなど複数の電子書店で発売開始されました。
もた、近々続編発刊シリーズ化も予定しております。
現在執筆中です。
乞うご期待。
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by seizaikai_club | 2014-11-17 01:06 | 歴史

海乱鬼王 信長

現在16位です。無料期間中に皆様に勝手頂けると、順位があがります。宜しくお願い致します。明日まで無料キャンペーンです。コメント、リビュー書き込んでいただけると幸いです。【信長ファン必見! 2日間限定無料ダウンロード】
ブクリパ出版記念として電子書籍「海乱鬼王 信長 」を以下の2日間限定で無料になります。
日時:2014年9月12日17時頃~13日17時頃まで
書籍URL:http://www.amazon.co.jp/dp/B00NGANBCU

【書籍内容】
明智光秀の謀反で本能寺で死んだはずの織田信長が、実は本能寺から脱出し、日本から出奔していた。
淀川を下って堺の港に停泊していたポルトガルの貿易船に乗せられ、日本をおいだされたのだ。
デウスを唯一の神と信じるバテレンたちは、自分のことを神と呼び人々を従わせる信長の存在が、邪魔になった耶蘇会は、陰謀を巡らせ明智光秀や諸将を誑かし陰謀に加担させたのだ。
バテレンたちは、キリシタン大名を増やすことで、当時宗教鎖国されていたシナへの布教の足が掛かりに日本をしようと企んでいたのだ。
そして、まず信長を排除しようと追いだした。
だが、七転び八起きの信長は、これは天命だと、この機会に世界を見てみようぞ、と災を転じさせ福となしたのだ。
乗せられたポルトガル貿易船は、実は奴隷貿易船だったことに怒った信長は、まずその船をシージャックした。
そして、新たな冒険時代巨編はスタートするのであった。
<作品紹介動画>
https://www.youtube.com/watch?v=4ERMaBBHPTY
<作品の一部はこちら>
http://www.bookrepublic.jp/gemstone/22
あなたの「応援」が電子書籍になるブクリパ
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by seizaikai_club | 2014-09-13 20:17 | 歴史

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【書籍内容】
明智光秀の謀反で本能寺で死んだはずの織田信長が、実は本能寺から脱出し、日本から出奔していた。
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デウスを唯一の神と信じるバテレンたちは、自分のことを神と呼び人々を従わせる信長の存在が、邪魔になった耶蘇会は、陰謀を巡らせ明智光秀や諸将を誑かし陰謀に加担させたのだ。
バテレンたちは、キリシタン大名を増やすことで、当時宗教鎖国されていたシナへの布教の足が掛かりに日本をしようと企んでいたのだ。
そして、まず信長を排除しようと追いだした。
だが、七転び八起きの信長は、これは天命だと、この機会に世界を見てみようぞ、と災を転じさせ福となしたのだ。
乗せられたポルトガル貿易船は、実は奴隷貿易船だったことに怒った信長は、まずその船をシージャックした。
そして、新たな冒険時代巨編はスタートするのであった。
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by seizaikai_club | 2014-09-13 07:35 | 歴史

「海乱鬼王 信長  織田信長外遊見聞録」CM改訂版

https://www.youtube.com/watch?v=4ERMaBBHPTY
「海乱鬼王 信長  織田信長外遊見聞録」発刊にあたってのCM改定修正版
恩田将葉著  BookRepublic刊

私は、
次に漫画化し、
映画化したい。
その後、
この作品を翻訳化し、
ハリウッドに売り込み
「THE PIRATE NOBUNAGA」
実写版の映画化をハリウッドで実現したい。
この夢を現実化したい。
皆様応援してください。
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by seizaikai_club | 2014-08-12 16:38 | 歴史

「海乱鬼王 信長  織田信長外遊見聞録」が出版されることになりました。

「海乱鬼王 信長  織田信長外遊見聞録」が出版されることになりました。
http://youtu.be/QVcHK3rlvHA
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by seizaikai_club | 2014-08-11 12:52 | 歴史

歴史小説「海乱鬼王 信長」  本能寺の変外伝  織田信長外遊見聞録


http://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_sb_noss?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&url=node%3D2275256051&field-keywords=%E6%B5%B7%E4%B9%B1%E9%AC%BC%E7%8E%8B%E3%80%80%E4%BF%A1%E9%95%B7
Amazon kindle Books 「海乱鬼王 信長」(カラギオウ ノブナガ) 

 織田信長は、本能寺の変で、明智光秀に殺されたと言われている。だが、実際には、信長の亡骸はどこにも残っていない。本能寺と共に、信長の亡骸も灰となったのだろう、とずっと言い伝えられてきた。しかし、それは本当だろうか。明智光秀は実行犯ではあるが、主犯ではなかったのではないか? 数々の疑問が残る。

 実は、信長は本能寺の変から生き延びていた。だから亡骸も見つからなかった。必至に光秀は亡骸を探した。だが、見つかるはずがない。光秀が本能寺を急襲した時に、本能寺にいるはずの信長は既に本能寺にはいなかった。それでは、誰が信長を救い出したのか。

 決して救いだしたのではない。信長は、究極の選択を迫られていた。その選択を迫ったのは、他でもない。イエズス会のルイス・フロイスだ。

 フロイスは、私と一緒に逃げなければ、間もなく明智光秀によって謀反によって急襲され殺される。信長は、「何故明智が?」とフロイスに問い返した。するとフロイスは、「私が諸将に謀反の協力を申し入れ、明智様をそそのかしたのです」と答えた。多くの武将は、信長を良く思っていなかった。そんな状況下、光秀は朝廷を大切に思っていた。そんなそれぞれの思いを理解した上で、フロイスは陰謀を企て実現することができた。

しかし、どの諸将より狡賢く立ち回ったのは秀吉であった。朝廷も、秀吉も、自ら手は下さなかった。だが、明智の謀反を黙認した。なのに、秀吉は、諸将に恩を着せ、その恩を後に払わせた。

 フロイスは信長に続けた。「それだけではありません。光秀だけでなく他の武将たちもそそのかし、陰謀を企てました」皆、それぞれの利害を考慮して、私の企てに「否」は言いませんでした。秀吉様も、例外ではありません。
 信長は続けてフロイスに問い質した。「何故そなたは、ワシを殺そうと思ったのだ」間髪を入れずフロイスは答えた。「ゼウス様のためにです」。信長は、「ゼウスのためと
な?」とすかさず問い返した。するとフロイスも、すかさず返した。「信長様が、ご自分を唯一神だとおっしゃったからです。神様は、唯一ゼウス様だけだからです」。「だが、それではな何故ワシを助ける?」「ゼウス様は、何人も殺めることを望まないからです。それと、私は信長様が好きです。殺したくはありません。ですが、イエズス会は違います」。豪放磊落な信長は、迷うことなく、「よしわかった。ワシはそなたに従うとする」「はい、信長様」「そのかわり、ワシを楽しませるのだぞ。よいな」。フロイスは、「かしこまりました。それでは、この上ない楽しい旅を用意します」と言った。

 フロイスに連れ出された信長は、フロイスが用意した小舟に乗り込み、鴨川を下った。そして、堺へと辿り着いた。そして、堺に辿り着いた信長は、大きい帆船に乗り換え、一路長崎を経て外洋へと出立した。

 その頃、世間は大騒ぎだった。明智光秀が本能寺を急襲し、信長の首を取ったとの噂が日本中を駆け巡った。毛利軍と対峙していた秀吉にもその知らせは届いた。しかし、秀吉は、既にそのことをフロイスより知らされていた。既に京都へ向かって大軍を率いて上る手筈もできていた。秀吉は、親代わりのような信長を殺めることには加担したくない。だが、信長様を生かして日本より追放するのなら、加担して良いとイエズス会の陰謀を受け入れた。しかし、その後のことは、秀吉自身で切り開くと付け加えた。イエズス会も、秀吉の案を許諾した。

 今後は、誰が信長の跡を取るかという戦になることは必至であった。その有力候補が秀吉であった。フロイスは、徳川家康へも話を持ちかけていた。だが、用心深い家康は、話にのってこなかった。もとよりフロイスは家康の人柄を承知していた。だが、家康は、必ず京都の側でその様子を確かめるであろうと踏んだ。

 案の定、京都にいた家康は、一目散に京都を後にし逃げ出した。フロイスは、西洋人の得意とする陰謀を企てたのだ。一人で行うのではなく、複数の利害が関わる人間を巻き込み陰謀を行うことで、誰が主犯かを煙に巻く方法だ。だが、皆利害関係で、参加する。だが、部分ごとに関わるので、全容を把握している人間はフロイスとイエズス会しかいない。信長暗殺の陰謀は、フロイスではなくイエズス会が主犯で企てた陰謀であった。

 勿論、陰謀の被害者である信長にも、利害を生まなければならない。信長にとっては、もう狭い日本で天下を取っているような小さなことは、面白くなかった。そんな信長を納得させる術は一つ。日本以外の世界を見聞させることだ。案の定、迷うことなく信長は、フロイスの提案にのってきた。迷わず、フロイスに唆され日本を出奔した。

 京都から堺へ移動した信長は、大きな帆船に乗り換え、平戸へ向かった。平戸では、マカオ、ゴア経由でヨーロッパへ帰るポルトガル奴隷貿易船に乗せられた。信長が乗船しているなど、誰も知る由もなかった。そして、マニラ経由で香港マカオに向かうはずの信長一行は、難破してマナドへ辿り着いた。

 マナドに辿り着いた信長一行は、既にポルトガル貿易船を手中に治めていた。だが、このままでは水も食料もなく困っていたところ、夢の楽園のようなマナドに辿り着いた。

 マナドには、温厚なマナド人が住んでいた。だが、金脈を探しにポルトガル人たちが、土足でマナドの人たちの生活を踏み荒らしていた。女達は、無理やり犯され子供を産まされ、マナドの人たちの主食のトウモロコシもほとんどポルトガル人に盗られてしまっていた。困り果てていたマナドの人たちは、信長一行に、金を探しにジャングルの奥地に出掛けているポルトガル人を、マナドから追い出して欲しいと懇願した。

 最初は、マカオやヨーロッパを見聞しなければならない信長は、二の足を踏んだ。しかし、心優しいマナド人たちへの恩返しと、コブラに?まれ命を落とした小姓の森三兄弟の一人の菩提を弔ってもらいたいために、ポルトガル人をマナドから追い出すことをマナドの人たちと約束する信長であった。
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by seizaikai_club | 2014-03-06 01:23 | 歴史

日本の三大革命

「日本の三大革命」

 日本には、大きな改革の時、革命期が三回あった。
その一つが平安時代末期、昨年の大河ドラマで注目を浴びた平清盛により、公家から武士へ権力委譲された時代である。これは、非常に前近代的で、独裁的かつ封建的な時代との決別といえる。正に日本に於ける黎明期からの脱却といっても過言ではないだろう。 
 二つ目は、天皇制を単に利用して形骸化し「天下布武」を旗印に乱世から天下統一を目差した織田信長の時代である。
 そして、三つ目が、主役が複数登場し近代化を象徴する民主主義への改革すなわち明治維新である。
 何処の時代を境に、近代とするかは研究者や歴史家の視点が、マクロかミクロかで大いに違ってくる。私は、織田信長の時代を境に、日本は近代化への道を歩み出したと信じている。
 日本人としてのアイデンティティーを確たるものにしたのが、徳川家康による江戸幕府であったと思っている。
 明治維新が、名実共に日本を近代化し民主化し形作った。そういう意味では、ヨーロッパをはじめとする世界史の中で、孤立しながらも日本は世界の潮流に乗り併走してきたと言っても過言ではない。
 織田信長の時代は短かった。だが、日本にとって非常に意味深い時代であった。立花京子博士という信長の研究者が興味深い信長論を展開している。私は彼女の説を一番自分が感じている信長像や信長論に近いように思う。

 何故ここまで信長に惹かれるのか、それには理由がある。多分それは、信長が、私が留学した当時と同じような視線で世の中を見ていたような気がするからだ。信長は留学などしていない。日本から出たこともない。
 だが、彼は他人の目を通して、世界を見ていた男であることを感じるからだ。彼の感覚の中には、出身だの、肌の色だの、そんなつまらないことは関係なかった。それよりも彼の探究心の方が遥かに勝っていた。彼は、他人の目を通じ、世界を見ようとしていたし、実際に見ていた。
 そのことは、ルイス・フロイスなどとの接点を見ても理解することができる。また、最終的には彼を死に導いた明智光秀との関係も、信長には見られなかった世界を明智光秀の目を通し見ていたからに他ならないと私は思っている。
 明智光秀は、浪人中商いで成功し、諸国を巡業していた。種子島や薩摩を、信長は明智光秀の目を通して見ていた。信長が金平糖を好物にしていたことからもそのことはわかる。
 記録によると、天文十八年頃、即ち信長十六歳の頃、既に鉄砲の稽古に励んでいた。同天文二十三年には、今川勢が立て籠る村木砦攻めで、鉄砲を次々に取り替え撃ち放つ戦法により勝利した。これは、武田勝頼を打ち負かした長篠の合戦の戦法だ。だが、信長は、これを既にこの頃実戦で使っていた。
 そんな信長の姿を、丁度織田家の人質になっていた家康は、驚きの眼差しで見聞した。信長は、唯者でないと直感し一目置いていたはずだ。ある意味、家康は、信長の目を通じ世界を見ていた。同時に、同じ轍を踏まぬように、家康は信長の弱点を己の戒めにしていたように私は思っている。
 だが、その気性や魂まで取り込むことはできない。そこで、家康は、一番信長と似ていると思っていたお市の方の三女江を二代将軍秀忠の嫁に迎え入れたのだ。真似るだけではなく、信長の魂まで徳川家に取り込もうと思ったに違いない。裏を返せば、そこまで家康は信長の怖さを知っていたということだ。敵に回すのではなく、味方につけなければ徳川家の繁栄はないと思ったのであろう。例え、それが亡霊であっても。

 一番興味深い立花京子博士の信長論は、ヨーロッパのグローバリゼーションと信長の「天下布武」が酷似しており、時代も同じで、アジアに於けるグローバリゼーションであったのではないかという説だ。
 このことは、非常に興味深く、何故信長がルイス・フロイス率いる耶蘇会を庇護したかに大いに関係があるように思う。そして、その架け橋になっていたのが、明智光秀であったのではないかと私は思っている。
 ご存知のように、明智光秀は細川ガラシャの実父である。明智光秀の生まれながらの性格自体が、ある意味キリスト教的であり、そのことをルイス・フロイスは逸早く察知し、娘ガラシャをキリシタンにすることで、明智を利用したのではないかと推察できる。
彼の実直さは、ある意味武器になる。その上、信頼に値する。だが、その実直さを利用すれば、裏切りをも成し遂げさせることができると、西洋人であるルイス・フロイスは客観的に感じ取ったのではないか。
 そして、ルイス・フロイスの目には、信長は唯一封建的な旧態依然とした日本社会を、改革できる力と能力を持っていた日本人であると映ったに違いない。
 だが信長は、ある瞬間、その期待を裏切ってしまった。それは、ルイス・フロイスを始め耶蘇会の人々が信じる絶対の神、イエスへの冒涜であった。
 悲しいかな、信長自体は、そのことに気付いてもいなかった。ただ、信長は、ルイス・フロイスをはじめとする耶蘇会への当てつけを意図したのではなく、単に、ナルシシストとしての傲慢さからきた、己を神格かすることへと暴走したのであった。
 しかし、ルイス・フロイス率いる耶蘇会は、そのことをイエスへの冒涜と捉えたのであろう。皮肉なことに、そのことが原因で革命家であった信長は命を絶たれ生贄にされた。
 その代償として、耶蘇会は家康によって封印された。一部始終を見聞していた徳川家康により、日本は黎明期を脱し、近代期へと突入した。それは、戦のない太平の世であった。
 そして、そんな家康にとっての一番の脅威は、耶蘇会をはじめとする外国からの風であった。ある意味、家康のメンタリティーの中に、耶蘇会イコール危険という方程式がインプットされてしまったのであろう。その結果、鎖国こそが太平の世への近道という選択をしたのだ。
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by seizaikai_club | 2013-06-11 18:59 | 歴史

秀吉と琉球と尖閣諸島

「秀吉と琉球と尖閣諸島」

 まず尖閣問題の現状に触れ秀吉の時代に移行する。
 現在中国と台湾により領土問題を主張されているが、日本政府は一貫して尖閣諸島に領土問題は存在しないと主張している。その根拠は、歴史を繙くと理解できる。
 明治維新後の一八七二年(明治五年)に琉球王国は琉球藩となり、一八七四年(明治七年)に内務省の直轄地となり、一八七九年(明治十二年)に琉球藩が廃止となって沖縄県となった。
 同年三月に英文発刊された「大日本全図」は柳田赳によって編纂され松井忠兵衛という私人が英文で刊行し内務省の版権免許を得た。この地図に、「琉球諸島」の中に「尖閣列島」として記載されている。
 時を同じくして、一八八四年(明治十七年)、福岡県八女郡山田村出身の古賀辰四郎が絶海の無人島である尖閣列島に調査団を派遣し、その後、自ら漁業、鼈甲の捕獲、貝類、アホウ鳥の羽毛の採取を行っていた。
 そのような状況下、一八八四年(明治十八年)九月二十二日、沖縄県知事は、尖閣諸島の実態調査を行うに当たって、尖閣諸島に国標を建立することを上申したところ、内務省は「沖縄県が実態調査の上、国標を建立することは差しつかえない」との見解を示した。 
 当時、中国からも、台湾からも、他のどこの国からも、領土権を主張されておらず、未だ無主地であると内務卿も考えていた。その後日本政府は、沖縄県当局を通じ、数々の尖閣諸島実地調査を経て、「この諸島が清国に所属する証拠がない」と判断した後、一八九五年(明治二十八年)占有論によって、尖閣諸島を日本国の領土として閣議決定した。
 そして、この時以来、国際的にも、国際法上も、海洋法上も、正式に尖閣諸島の各島々は日本国領土となった。
その後、諸々の歴史を経て、最初に尖閣諸島に調査団を送った古賀辰四郎氏に、一九三二年(昭和七年)三月三十一日、日本政府は尖閣諸島の内四島を有料で払い下げた。古賀氏は、尖閣諸島開拓への功績が認められ一九○二年(明治四十二年)藍綬褒賞を授与された。そして現在に至っている。
しかし、一九六八年(昭和四十三年)十月十二日より同年十一月二十九日までの間、国連海洋調査団がこの海域の海洋調査をおこなった。その結果が一九六九年(昭和四十四年)五月に国連アジア極東経済委員会(ECAFE)によって公表され、この地域に眠っている海底資源が一躍脚光を浴びた。
 その直後、中国と台湾が、尖閣諸島の領有権を主張しだしたのだ。この時、アメリカ合衆国は沖縄返還前の故佐藤栄作元総理に対し、この地域の海底資源共同開発を提案したが、故佐藤元総理はアメリカの申し出を足蹴にした。その腹癒せに、アメリカのガルフ・オイルの子会社パシフィック・ガルフ社は、一九七○年(昭和四十五年)七月、台湾政府に対し、尖閣諸島を含む台湾北東海域の深海調査権を許可した。このことが発端で、中国、台湾が領有権を日本に対し主張するようになった。
 歴史に仮説はあり得ないが、結局日本独自で全くこの海域の開発を行わなかったのだから、アメリカの提案をこの時受け入れ開発していれば、アメリカ人が日本領土である尖閣諸島で働いているということで、尖閣列島を明確に日本領土として第三国アメリカが証人となり、しかも領土防衛という意味で、台湾も、中国も問答無用で手出しができない状態になっていたことは明らかだ。これらの事実関係を踏まえた上で、豊臣秀吉の時代に話を戻すこととする。

 一五八九年、関白秀吉は、琉球に対し入貢を要請した。当時秀吉は、既に朝鮮出兵のことで頭が一杯であった。そのために、一五九一年には、軍役、兵糧米などを琉球に要求した。
ところが琉球は、要求の半分のみを満たした。その結果、秀吉は、琉球を快く思わなくなり、結果として、島津家による琉球征服を認めた。
 結局一五九二年、秀吉は、琉球を島津家の「与力」として、その軍事指揮下に附属させることを認めた。以来、薩摩島津家では、当時アジア全域の貿易拠点として成り立っていた琉球を支配することになり、砂糖などの豊富な財源を得る事になった。

 琉球王国は当時既に、東アジア地域における大切な貿易拠点となっていた。だが、貿易に好立地な琉球であったが、反面、中国、台湾、日本と大きな力に翻弄されながら生き残りを掛けて成り立っていた。そんな生き残りの知恵が、琉球を三分割して王を別々に立てていたことなどにも見て取ることができる。
 そんな状況下、尖閣諸島と琉球の関係は、歴史的にも非常に長い。それは、琉球と中国の外交歴史の中にもハッキリと登場し、冊封使が残した冊封使録の「中山傳信録」「順風相送「使琉球録」などにも登場する。
この冊封使とは、琉球の国王であることを中国の皇帝から承認してもらうことを「冊封」といい、中国から派遣される使節のことを冊封使といった。
 その中で、「朝貢」、外国からの遣いに対し、その要求に応えて貢物を差し出すことをいい、琉球が行った「朝貢貿易」とは、中国が中華思想に基づいて行った貿易形態で、中国が指定した内容に従って行う貿易の形態をいっていた。
 このことに、秀吉は目を付け、琉球を中国との板挟みにし「入貢」を迫ったのだ。困った琉球は、半分だけ応じたということだ。

 この冊封使の行き来に当たって、尖閣諸島は琉球と中国の間の目印として記録されている。だが、これらの資料から読み取れる尖閣諸島の領有権には賛否両論があり、其々の学者の立場により意見が分かれる。
 特に、久米島を挟んで以南か以北か琉球領と中国領を分けて解釈される場合が多いようだ。しかし、その根拠は明確でない。「琉球に戻ってきた」「中国に戻ってきた」というような記述だけだ。明確なことは、当時から無人島であり、中国は石高のないこれらの島々に海底資源があることを知るまで関心がなかったということだ。
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by seizaikai_club | 2013-06-11 18:34 | 歴史

「政治をもっと身近に」をスローガンにして、日本人にもっと「愛国心」を喚起すべく語る。
by seizaikai_club
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政財界倶楽部代表  恩田将葉
 「政治をもっと身近に」をスローガンに、一人でも多くの日本国民が政治に関心を持ち、参加してくれるよう、執筆活動、出版活動等を通じ「愛国心」啓蒙活動をしている。国際化が進む世界の中で、日本の政治も若者の手で変革しなければならない!!

 政財界倶楽部代表恩田将葉は、 アメリカ合衆国カリフォルニア州で約9年間生活。その間、サン・フランシスコ州立大学(San Francisco State University, SFSU)国際関係学部で国際関係学と政治を学び、朝鮮半島問題専攻で卒業。その後、暫くアメリカで現地法人の会社(People Intertrade, Inc.)を経営した後帰国。帰国後は、記者と編集者を経て出版社である株式会社ぴいぷる社と株式会社政財界出版社、そして、夕刊紙「内外タイムス」を発行する株式会社内外タイムス社の社長に就任。活字業界一筋に生きてきた。現在は、経営から一歩引き、国際情勢ならびに政治を中心に、ジャンルを問わず執筆活動を継続中。プロの文士として、随筆、小説、脚本等あらゆる分野で執筆活動を展開し、文章を綴ることを天職としている。そのかたわら、日本に、嘗てのごとく「愛国人」を増やすべく、「政治をもっと身近に」をスローガンに、自ら「政財界倶楽部」を運営している。

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