チベット問題、ミャンマー被災救援問題、そして、平和ボケ日本
2008年5月12日
ここのところ、日本国内でも、平和活動が庶民レベルで活発化してきた。非常に良いことであると思う。アメリカにいた頃、私が一番感銘を受けていたことは、このような平和運動であった。渡米した当初ホームステーさせて頂いた家のママさんが、新聞記者であり平和活動家であったため、日本では見聞できない色々なことを体感させてもらった。兎に角、理屈ではなく自分の目で見て、心で感じることが大切であり、全ての活動の原点なのだな、とその時思った。そして、一人一人の力は小さくとも、人々が手を合わせ動けば大きな力になり、国を動かすことも、世界を動かすこともできるのだな、と実感させられ感激した記憶が蘇ってきた。
ただ、悲しいかな1つだけ、違うことがある。それは、政治に関する関心度である。アメリカで私が経験した平和活動に集う人々は、平和活動をする以前に、まず自国アメリカの国政への思いも大きく、きちっとそれぞれの人々が政治へ対しての意識や立場を自分なりに持ち活動していた。その証拠に、色々な場面でアメリカ人は議論を繰り広げる。パーティーの席でも、会食の席でも、ピクニックなどの娯楽の際にも。大体、日本人に比較すると、アメリカ人の方が格段に議論上手であり、議論好きである。議論を戦わすことも多い。よくアメリカ人は、友人や知人と昼食や夕食を共にする。そんな場面でも、政治について議論を戦わせることが多い。私は、非常に良いことだと思った。それだけ、政治に大きな関心を抱いているという証しだ。それを聞いている子どもたちも、自然と政治に興味を抱く。当然、経験の浅い子供たちは、彼らなりの理解や考えの中で、各種活動に参加したりする。その是非は別として、色々と思考し、色々な人々と接し、色々なことを体感しながら、自分の思想というものを確立し成長していく。それが、私には素晴らしく思えた。そのような経験的学習習慣は、日常生活に留まらず、アメリカの教育の中にも根付いていた。まあ、サン・フランシスコというアメリカの中でもリベラルな土地柄もあり、他の地域よりも人々の政治に対する意識も高かったのかもしれないが。
今回、チベットでの暴動に始まり、北京オリンピックの聖火リレーなどを通じ、非常に多くの日本人が、平和活動的な動きに賛同し、参加しだしている。非常に良いことだと思ってみている。今まで、自己中心的な部分だけが際立ってしまっていた日本人が、他人のために、怒ったり、泣いたり、笑ったりできることは、歓迎すべき変化である。ただ、同時に、少しだけ日本の政治にも関心を持って頂けると、もっと喜ばしい。自国の政治が、これだけ疲弊している状況下、どんなに一生懸命平和活動をしても、国際社会に於いては、説得力がない。迫力に欠けてしまう。「自分の国の政治は等閑にしておいて、他民族の平和活動? 平和活動は趣味や流行や遊びじゃないよ。人の命が掛かっている命懸けの活動だよ。わかっている?」とある欧米人の活動家が、若い日本人の活動家に問うている場面に遭遇した。彼の言いようは、正直ただの「驕り」にしか私には聞こえなかった。だが、確かに彼の言い分にも一理ある。そのぐらい、外国人から見ても、日本の政治の現状は堕落して見えるということだ。
今の日本の政治は、戦後の日本の政治の中で、最悪最低ではないかと私は思っている。本来政治とは、国民を守るものでなければならないはずだ。にもかかわらず、今の政治は、国民を惑わせ右往左往させるだけだ。暫定税率問題で、街中のあちらこちらにガソリンを求める長蛇の列ができている光景を見て、私は悲しみと憤りで胸が張り裂けそうであった。あの光景を目の当たりにして、何も思わず、何の行動も起こさない政治家は、皆辞めた方がいい。いや、我々有権者が彼らを首にするべきだ。結局、踊らされ、弄ばれ、皺寄せを受け、貧乏クジを引かされているのは、国が守られなければならない我々国民ではないか。与党も野党も、どちらも間違っている。今の日本の政治自体が間違っている。私は、強くそう感じた。きっと、多くの日本国民が、そのように思っているのではないか。国益の原点とは、国民を守ることである。そのことを等閑にして、政治家も役人も、自分たちの私利私欲や思惑ばかりに奔走し、正に「平和ボケ日本」という恥を世界に曝しているだけではないか。そのことを正さずして、平和活動といっても、確かに「説得力に欠ける」といわれてしまっても仕方がない。
そのどうしようもない政治のトップにいる福田総理が、ミャンマーへサイクロン被災支援医療団を送ることを断られたことに対し、強い不快感を表明した。確かに不快だ。だが、日本国民は、そういう福田政権自体にも大きな不快感を覚えている。そのことには気付かれていないのか? あまりにも鈍感過ぎる。
あれだけ多くのミャンマーの人々が被災し苦しんでいるにもかかわらず、軍事独裁政権はこの期に及んで、まだ自分達の私利私欲でしか動かない。自国民を守り救済する気持さえまったく感じられない。何故日本の救援活動を拒否するかの理由はいくつもある。大体、救援活動の際に、アメリカなどは、多くの諜報活動員を忍び込ませる。こういう理不尽な軍事独裁政権を崩壊させるには、どうしても内側で活動し、ムーブメントを扇動することが必要不可欠だからだ。そういう分子が、救援活動で紛れ込んでくることを警戒しているのであろう。そういうアメリカが為す水面下での活動に対しては、賛否両論があるのはわかる。しかし、ミャンマーやチベットの人々の人権を考えると、ただ闇雲に反対や批判はできない。その間にも、当事者である多くの罪のない人々が命懸けで苦しんでいる現実があるのだから。
チベットの問題は、随分と前から関心を持っていた。自社の雑誌に一時連載して頂いていたペマ・ギャルポという当時ダライ・ラマ法王特使を務めておられた方から色々な話を聞いていたこともあったが、アメリカの仲間が多くチベット問題に関わっていたこともあったからだ。だが、ここにきて、こういう平和活動に優先順位をつけることは不適切でありするべきことではないが、ミャンマーに対しての平和活動を強化するチャンスが俄かに訪れているような気がする。何故なら、鎖国に近い状態を貫き通す軍事独裁政権も、さすがに天災で国民が苦しんでいれば、どこかのタイミングで他国からの援助を受け入れなければならなくなるはずだ。そして、援助を申し出ている国を選り好みなどしている暇もなくなるはずだ。サイクロン自体は、ミャンマー国民にとって災難である。だが、この災難が、「災い転じて福となす」といえるようなキッカケを災害支援と共に、他国民である我々が働きかけるべきである。そして、ミャンマー軍事独裁政権を正すキッカケに今回の救援支援活動がなれば、意味も大きくなる。アメリカはじめ日本など同盟国は、その辺まで視野に入れた救援活動を、一度で諦めることなく継続的に求めていくべきである。
こういう平和活動や救援活動に、政治的な思惑が影響することはあってはならない。しかし、苦しんでいるミャンマーやチベットの人々のことを考えればある程度は仕方がないように思う。その辺は、臨機応変に対処するべきであると強く思う。問題は、当事者であるミャンマーやチベットの人々がどれだけ苦しみの中にいるか、ということを上辺だけでなく理解して活動をするということだ。そのために政治を利用することは、致し方ないことではないか。私は、そう考える。