「日本の三大革命」
日本には、大きな改革の時、革命期が三回あった。
その一つが平安時代末期、昨年の大河ドラマで注目を浴びた平清盛により、公家から武士へ権力委譲された時代である。これは、非常に前近代的で、独裁的かつ封建的な時代との決別といえる。正に日本に於ける黎明期からの脱却といっても過言ではないだろう。
二つ目は、天皇制を単に利用して形骸化し「天下布武」を旗印に乱世から天下統一を目差した織田信長の時代である。
そして、三つ目が、主役が複数登場し近代化を象徴する民主主義への改革すなわち明治維新である。
何処の時代を境に、近代とするかは研究者や歴史家の視点が、マクロかミクロかで大いに違ってくる。私は、織田信長の時代を境に、日本は近代化への道を歩み出したと信じている。
日本人としてのアイデンティティーを確たるものにしたのが、徳川家康による江戸幕府であったと思っている。
明治維新が、名実共に日本を近代化し民主化し形作った。そういう意味では、ヨーロッパをはじめとする世界史の中で、孤立しながらも日本は世界の潮流に乗り併走してきたと言っても過言ではない。
織田信長の時代は短かった。だが、日本にとって非常に意味深い時代であった。立花京子博士という信長の研究者が興味深い信長論を展開している。私は彼女の説を一番自分が感じている信長像や信長論に近いように思う。
何故ここまで信長に惹かれるのか、それには理由がある。多分それは、信長が、私が留学した当時と同じような視線で世の中を見ていたような気がするからだ。信長は留学などしていない。日本から出たこともない。
だが、彼は他人の目を通して、世界を見ていた男であることを感じるからだ。彼の感覚の中には、出身だの、肌の色だの、そんなつまらないことは関係なかった。それよりも彼の探究心の方が遥かに勝っていた。彼は、他人の目を通じ、世界を見ようとしていたし、実際に見ていた。
そのことは、ルイス・フロイスなどとの接点を見ても理解することができる。また、最終的には彼を死に導いた明智光秀との関係も、信長には見られなかった世界を明智光秀の目を通し見ていたからに他ならないと私は思っている。
明智光秀は、浪人中商いで成功し、諸国を巡業していた。種子島や薩摩を、信長は明智光秀の目を通して見ていた。信長が金平糖を好物にしていたことからもそのことはわかる。
記録によると、天文十八年頃、即ち信長十六歳の頃、既に鉄砲の稽古に励んでいた。同天文二十三年には、今川勢が立て籠る村木砦攻めで、鉄砲を次々に取り替え撃ち放つ戦法により勝利した。これは、武田勝頼を打ち負かした長篠の合戦の戦法だ。だが、信長は、これを既にこの頃実戦で使っていた。
そんな信長の姿を、丁度織田家の人質になっていた家康は、驚きの眼差しで見聞した。信長は、唯者でないと直感し一目置いていたはずだ。ある意味、家康は、信長の目を通じ世界を見ていた。同時に、同じ轍を踏まぬように、家康は信長の弱点を己の戒めにしていたように私は思っている。
だが、その気性や魂まで取り込むことはできない。そこで、家康は、一番信長と似ていると思っていたお市の方の三女江を二代将軍秀忠の嫁に迎え入れたのだ。真似るだけではなく、信長の魂まで徳川家に取り込もうと思ったに違いない。裏を返せば、そこまで家康は信長の怖さを知っていたということだ。敵に回すのではなく、味方につけなければ徳川家の繁栄はないと思ったのであろう。例え、それが亡霊であっても。
一番興味深い立花京子博士の信長論は、ヨーロッパのグローバリゼーションと信長の「天下布武」が酷似しており、時代も同じで、アジアに於けるグローバリゼーションであったのではないかという説だ。
このことは、非常に興味深く、何故信長がルイス・フロイス率いる耶蘇会を庇護したかに大いに関係があるように思う。そして、その架け橋になっていたのが、明智光秀であったのではないかと私は思っている。
ご存知のように、明智光秀は細川ガラシャの実父である。明智光秀の生まれながらの性格自体が、ある意味キリスト教的であり、そのことをルイス・フロイスは逸早く察知し、娘ガラシャをキリシタンにすることで、明智を利用したのではないかと推察できる。
彼の実直さは、ある意味武器になる。その上、信頼に値する。だが、その実直さを利用すれば、裏切りをも成し遂げさせることができると、西洋人であるルイス・フロイスは客観的に感じ取ったのではないか。
そして、ルイス・フロイスの目には、信長は唯一封建的な旧態依然とした日本社会を、改革できる力と能力を持っていた日本人であると映ったに違いない。
だが信長は、ある瞬間、その期待を裏切ってしまった。それは、ルイス・フロイスを始め耶蘇会の人々が信じる絶対の神、イエスへの冒涜であった。
悲しいかな、信長自体は、そのことに気付いてもいなかった。ただ、信長は、ルイス・フロイスをはじめとする耶蘇会への当てつけを意図したのではなく、単に、ナルシシストとしての傲慢さからきた、己を神格かすることへと暴走したのであった。
しかし、ルイス・フロイス率いる耶蘇会は、そのことをイエスへの冒涜と捉えたのであろう。皮肉なことに、そのことが原因で革命家であった信長は命を絶たれ生贄にされた。
その代償として、耶蘇会は家康によって封印された。一部始終を見聞していた徳川家康により、日本は黎明期を脱し、近代期へと突入した。それは、戦のない太平の世であった。
そして、そんな家康にとっての一番の脅威は、耶蘇会をはじめとする外国からの風であった。ある意味、家康のメンタリティーの中に、耶蘇会イコール危険という方程式がインプットされてしまったのであろう。その結果、鎖国こそが太平の世への近道という選択をしたのだ。