尖閣諸島領土紛争の経緯 第四話
2010年9月17日
既に記したように、1968年(昭和43年)秋、国連アジア極東経済委員会(ECAFE)の協力を得て、日本、韓国、台湾、フィリピン、そして、アメリカの科学者たちが参加し、東シナ海一帯にわたって海底調査を行った。その結果、東シナ海の大陸棚には、有望な石油資源が埋蔵されている可能性があることが指摘され、これが契機となって尖閣諸島がにわかに関係諸国の注目の的となったのである。その後、中国が尖閣諸島の領有権を突然主張しはじめ、新たな関心を呼ぶに至った。そのような状況下、領有問題が日本のマスコミに取り上げられたのは、1970年(昭和45年)7月に、台湾政府がアメリカのガルフ・オイルの子会社パシフィック・ガルフ社に北緯27度以南の台湾北東海域、すなわち尖閣諸島が全部入る海域の探査権を許可した時が初めてである。このことが発端で、各種マスコミの取材合戦も始まり、関係各国入り乱れての紛争に進展していった。
これに対して日本政府は、1970年(昭和45年)8月、愛知揆一外務大臣(当時)が、参議院沖縄・北方特別委員会で、台湾政府がとった措置は国際法上違反であり、その旨を台湾政府に申し入れたことを明らかにした。
その後、台湾政府は、探査発掘の権利は台湾政府にある旨を表明した。また、台湾水産試験場所属の海憲丸が、魚釣島晴天白日旗をたてるなどの行為を行い、日本政府の申し入れを拒否する姿勢をとった。
これに対して、日本政府は台湾政府に抗議し、大陸問題に関して交渉することを再度申し入れたが、実質的にはほとんど進展しなかった。
一方、この時は中国も、台湾政府がとった措置は中国領土を侵犯するものである、と台湾を非難する姿勢を示した。
1972年(昭和47年)の沖縄返還に際して、アメリカ上院外交委員会は、沖縄返還協定の審議に当たって、本会議への勧告書の中で、「沖縄返還協定の取り決めは、尖閣諸島に関するいかなる国の主権保有の主張にも影響を及ぼさないことを確認する」との見解を発表し、本会議の支持を得た。
その後、尖閣諸島の領有問題は、日中間で棚上げにされたまま、対立が続いていた。その理由は、中国が日本政府との日中友好条約交渉に尖閣諸島の領有問題を出すのはマイナスとの判断があったからにすぎない。
1972年(昭和47年)5月15日に沖縄が日本に返還された後の9月27日、北京で時の総理大臣田中角栄と毛沢東主席がトップ会談の場をもち、その場で合意した問題に関して行った共同声明にも、「主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵ならびに平和共存の諸原則の基礎の上に両国間の恒久平和友好関係を確立する」と明記されている。
ところが、1978年(昭和53年)8月12日に日中平和友好条約が締結された年の4月、機関銃で武装した百数十隻の中国漁船が大挙して尖閣諸島に押し寄せ、一週間に渡って日本領海を侵犯するという事件が発生した。この事件は、時の日本政府に大きな衝撃を与えた。しかし、悲しいかな、当時の日本政府はただただ狼狽し、北京政府に対して武装漁船の引き揚げを打電するだけが精一杯であった。この時の日本政府の軟弱な対応は、日本の軟弱外交姿勢を中国政府に露呈するだけになってしまった。
翌1979年(昭和54年)、中国の鄧小平副首相が日本を訪れた際、福田赳夫首相との会談後、立ち寄った大阪での記者会見の席で、尖閣諸島問題に触れ「この盛大の人は、知恵が足りない。次代の世代の人に任せよう」と発言して、事実上尖閣諸島問題は棚上げされた。一見、日中間での尖閣諸島領有紛争は、落着したかのように見えた。しかし、実際には、当初兵の巧みな言い回しによって、「尖閣諸島棚上げ論」は、中国にも領有権主張の根拠があるかのごとく、内外に知らしめてしまう結果となってしまった。鄧小平率いる中国側の方が、事実上役者が一枚上手であったということだ。
中国側は、現在もこのような紛争を度々引き起こしながら、その都度、「棚上げ論」をふりかざし、一歩一歩着実に領有権の実現に向かっての足がかりを積み上げている。中国が、尖閣諸島を自国領土と主張する根拠は、国際法上も占有理論上も皆無である。が、しかし、度重なる中国側の主張を聞かされ続けていると、現在、日本と韓国の間で紛争状態となっている竹島のように、やがて尖閣諸島も中国領土になってしまうのではないだろうか、と錯覚してしまうほどである。ここが、非常に危険なポイントである。戦後教育によって、歴史認識が甘くなっている日本人の中には、これらの領土問題においても、日本人でありながら、日本の領土を主張するのではなく、中国側があたかも正しいような言い方をしてくる輩さえ登場してきている。それは、あまりにも執拗に中国が、間違った歴史観を主張し続けるものだから、歴史認識が甘い一部の日本人は、洗脳されたような状態になってしまっているのであろう。
それだけではない。日本が1952年(昭和27年)4月28日に、サン・フランシスコ講和条約発効によって、主権を回復した3カ月前の1月17日、韓国李承晩大統領が一方的に、海洋主権宣言を発して、日本固有の領土である竹島を、李承晩ラインの中に含まれるものとして警備隊を常駐させ、武力をもって実効支配したことと同じような事態を招いてもおかしくないということだ。
※この記事は、私自身の執筆により、2005年3月号「月刊政財界」に掲載されたものを、一部新たに加筆修正したものである。