脳梗塞顛末記
2011年10月1日
約一か月前。八月下旬に、私は脳梗塞と脳内出血に倒れた。昼過ぎ仕事の打ち合わせを予定通りこなし、3時前に次のアポに移った。それまで何の異常もなかったのだが、3時過ぎ突然異変が訪れた。時間は3時10分過ぎ、突然言葉でなくなった。話そうとしても、まったく言葉が出てこない。だが、酷い頭痛があるわけでもなく、ただ言葉が出てこない。同席していた仕事の関係者が後に曰く、あの時、不思議な動きを私はしていたそうだ。何が起こったのかと思ったという。同時に、言葉が全く出てこなくなり、表情がなくなった。それだけでなく、こちらからの質問へもまったく答えなくなってしまた。その様子は、異常な感じであり、少々怖くなったという。間違いなく、何か身体的に異変ができたとわかったので、暫くカウチに静かにさせようとしたとのことだ。実際、小一時間カウチで寝ていた。
ところが突然すっくと立ち上がり、言葉もなく部屋を出て車に乗り込んで去ってしまった。車の運転ができるのかと非常に心配であったという。3時過ぎからの記憶は、私自身はほとんど残っていない。ただ、自力で運転をしながら、防衛医大まで必死に向かった。そのことはよく覚えている。もう既に思考能力が低下し、自分の車でありながらハザードやウィンカー、ナビまで操作ができなくなっていた。後から考えると、操作方法等が、記憶からまったく消えてしまったということだ。頭の中では、言葉をしゃべっている。ところが、声として出ない。運転しながら、一生懸命話そうとしていた。同時に、時間と共に右半身がどんどん痺れおかしくなってきた。病院に着くころには、左手も痺れていた。
そんな状況下でも、兎に角二年前に入院した防衛医大に向かわなければと、そればかりを思っていた。何故ならば、2年前の経験で、自分の中で最も信頼できる病院であったからだ。しかし、自分がいた場所は都内、約50キロ程度をかなり危険な状態で運転してきた。今考えると恐ろしいことだ。それでも、自分の中では、救急車で運ばれれば、知らない病院に入れられてしまう。それならば、防衛医大に入りたいと、思ったのであろう。
よくも警察に止められることもなく、無事1時間たらずで防衛医大まで辿り着いたものだ。既に時間は、午後6時10分過ぎ。救命救急センター前に、迷惑な駐車の仕方で車を乗り捨てた。エンジンを止め、鍵を掛け、これはもう無意識であったに違いない。そのまま救命救急センター入り口の受付にヨタヨタと辿り着いた。誰の目にも、異常が理解できたのであろう。直ぐに、ERの先生方が現れた。私は崩れ落ちた。先生の「多分脳内出血」という声が聞こえた。意識が薄れた。気付けばストレッチに乗っていた。周囲の音や声は聞こえていた。慌ただしく、周りが動いていた。聞き覚えのあるCTの音がした。まるで、他人事のように、自分を中心に、バリアの中にいるようであった。自分のことでありながら、客観的に全てが見えていたような気がする。
暫くすると、名前や生年月日、住所など訊かれた。ところが、言葉がでない。必死に、言葉にしようとするのだが、言葉にならない。必死に、子供たちの名前だけ繰り返してたそうだ。特に、数字が全く出てこない。住所の数字、生年月日の数字、数字が頭の中からどこかに消え去ってしまったようだ。またしばらくして気付くと、ストレッチに乗せられ、長く暗い廊下を進んでいた。エレベーターをいくつか乗り継ぎ、気付けば病室に辿り着いた。動けないようにベッドに拘束具で、両腕と腰を拘束された。頭が激しく痛み、横に寝ていることが辛かった。吐きそうである。頭を一杯に上げてもらい、アイスノンをいくつか頭の下に敷いた。どれだけ時間が経ったのであろうか。窓際のベッドで、窓の外が漆黒の闇に包まれていた。自分の頭の中のようで、暗闇の迷路を彷徨っているような気持ちであった。
翌日の朝目を覚ますと、右半身が依然痺れていた。だが、手も足も動く。必死に動かしてみようと試みた。左手の痺れはすっかり取れていた。窓の外に網が貼ってあり、その網にセミが何匹も留まっていた。ところが、「セミ」という言葉がでなかった。いや、声自体がでない。それでも、前夜よりもましになっていた。自分の名前が言える。生年月日は言えないし、住所の番地等も言えなかったが、住所なども言えるようになった。30分掛かって、「セミ」という単語を探し出した。平仮名が、バラバラに飛び回っていた。身動きできない中、暫く眠りに落ちると、息子の姿が目の前にあった。胸を撫で下ろした。見回してみると、妹や母、それと友達が集まってくれていた。救命救急センター前に駐車した車を、友達に任せ自宅に持ち帰ってもらった。もしかすると、この二日目の記憶は実際には三日目であったのかもしれない。この辺の記憶は、私の中にはない。
三日目には、担当医も驚くほどに、右半身不随は元に戻り、言葉も戻りだした。「100-7=」からずっと引き算を繰り返された。だが、暗算がまったくできない。元来数字には弱い私にとって、引き算は苦戦した。だが、平仮名は直ぐに再学習した。担当医にも、前向きでリハビリ意識が非常に高いと褒められた。だが、一度死んでしまった細胞は戻らない旨を知らされた。再学習、リハビルしか方法はないと宣告された。だが、落ち込むことはなかった。兎に角、どんどん再学習(リハビリ)するしかない。時間は十分にあった。兎に角、必死で再学習した。みるみる言葉も戻りだした。
息子が持ってきてくれた「本能寺の変 四十七年目の真実」という本を読んでみた。読める。だが、1ページを読むのに1時間掛かった。まるで、左側と右側で、まったく別の世界が広がっているようだ。左側で認識できる単語は、今まで通り目に入る。だが、右側で認識できる単語は、例えひらがなでも未知の世界のようだ。グルグルと目が回るように、行がグルグルと回っていた。
そうこうしていると、担当医から病状の説明があった。三か所の脳梗塞と脳内出血を起こした。一番大きな脳内出血は、脳の「角回」という認知を司る部分で起こっているとのことであった。驚かされたのは、今回以外に、若い頃に交通事故で患ったであろう古い梗塞を含め、全部で六ヶ所の梗塞か所が確認できるとのことであった。今まで、障害が出ていなかったことが不思議だという。確かに、担当医に言われてみると、兆候があったのかもしれない。ただ、自分で気付いていなかっただけだ。1年以上前より、酷い後頭部の頭痛に苦しんでいた。ロキソニンを常用していた。また、3時間以上眠れなかった。「あの」「その」というようなことが多かった。物忘れが多かったし、ここ数カ月は、洗い物で兎に角よく食器を落として割っていた。バックの際に、ハンドルを非常に重たく感じていた。どれも、兆候であったのであろう。
不思議なことがある。それは、ぐっすり眠れるようになった。溶けるように眠ることができるようになった。これは、非常に大きい。まるで何年振りかに本当の眠りにつけるようになったような気持ちだ。リハビリによる再学習を続けながら、右腿の付け根より、カテーテルを脳まで入れ治療を行った。そうこうしている内に、退院を迎えた。そして、昨日1ヵ月検診まで辿り着いた。
死んでしまった脳細胞は元に戻らないそうだ。そこにあった記憶も元には戻らない。再学習、リハビリしかない。昨日の検診では、脳に傷があるので癲癇発作が起こる確率もあるとのこと。半年間は、運動を控え運転なども控えた方がよいとのこと。そうはいっても、生活をしていかなければならない。まあ、これが自分の運命なのであろう。身体は実年齢より元気だが、脳年齢は実年齢より酷く老化しており、何時死んでもおかしくないとのこと。無理して生きてきたツケが回ってきたのかもしれない。だが、それでも家族を守り、生きていかなければならない。これが、人間の運命というものだ。甘えるのではなく、生きていかなければならない。二年前の入院、そして、今回の入院。天にもちびかれて、生かされていることを実感させられた出来事であった。